第58話『水辺の女神』

 プール当日、手早く水着に着替えた雄一は、待ち合わせ場所と決めた大きなヤシの木の前にあるベンチに腰掛けていた。脱衣所の出口から出てくる人を何気なく眺めているように見えて、身体は少し挙動不審に揺れている。知らず知らずのうちにしていた貧乏ゆすりに気付き、恨めしそうに自分の足を手ではたいた。


「すぅー……はぁー……」


 大きく深呼吸。二、三回繰り返したところで、改めて脱衣所の出口に目を向ける。


 澄乃は――まだ来ない。


 見知った銀色が現れるにはまだ時間がかかるようで、雄一は今一度ため息をついて頭を垂れた。


 別に待ちくたびれたわけではない。女性の方が着替えに時間がかかるのは分かり切っていたことだし、肌のケアにだって気を遣うだろう。脱衣所の入口で別れる際にも、澄乃から「ごめん、ちょっと時間かかると思う」とは言われていたので、今さら待つことに関してどうこう言うつもりなどない。雄一としても落ち着くための時間が欲しかったので、正直ありがたいとも思ったぐらいだ。


 なのだが、自分の心臓は一向に落ち着く気配がなかった。


 平静を取り戻そうと深呼吸なり柔軟体操なりをしてみても効果は薄く、むしろ時間が経つごとに鼓動のリズムは早くなっていく。落ち着くどころか、待てば待つほど逆効果にしかなりえない。


 あぁ、お預けを喰らった犬の気分ってこんな感じかなぁと思ったところで、それを追い出すように首を振る。


(いやお預けって……! 白取は食べ物じゃないだろ……!)


 美味しそうな果実は二つほど実っているが。


(だから何考えてんだ俺はッ!?)


 無性に大声で叫びたくなった。「あー!」とかじゃなくて、「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーッ!」という感じで。とにかく身体に溜まった色々なものを吐き出したい気分なのだが、さすがにここで叫んだら不審者もいいところだろう。


 いっそ水中だったらイケるかもしれないと思い、茹だった思考の冷却兼ねてちょっとだけプールに浸かろうかと立ち上がった矢先、脱衣所の方からざわっとする気配を感じ取った。


 十中八九そうだと思って目を向けると……やはり予想通り、こちらに向かって歩いてくる美しい少女の姿が見て取れる。


 ぎこちなく、けれど迷うことなく一直線に。端正な顔をほんのりと朱色に染めて、その少女は雄一の前に辿り着いた。


「お、お待たせ……」


 澄乃の瑞々しい唇が恥ずかしそうにその言葉を口にする。


 ――圧巻だった。


 澄乃の水着姿は想像以上の魅力を備えて雄一の前に現れる。予想の二、三割増し――いや、もはや計測不能。戦闘力を図るゴーグルでも付けていようものなら、火花を散らしてぶっ壊れるぐらいの数値である。


 思考は呆けて言葉が出てこないのに、目だけは正直に澄乃の姿を観察していく。


 水着の形はホルターネックタイプのビキニ。色は白とピンクのストライプ模様で、胸の中央に大きなリボン、周りは控えめなフリルで縁取りされて大変可愛らしいデザインだ。


 下の方は膝丈より少し上のパレオスカートを履いている。一見露出を抑えたような装いではあるが、洒落っ気をプラスしたのかスカートの一部に切れ込みが入っていた。さながらチャイナドレスのスリットよろしく、その狭間から澄乃の真っ白な太腿が見え隠れしている。


 水着のセンスもさることながら、それを身に纏う澄乃も流石の一言に尽きる。


 日頃からスタイルが良いと思っていたが、普段は見えなかった部分まで目の当たりにすると、その完成具合は改めて素晴らしい。


 ほっそりとした首筋と白さが眩しい鎖骨周り。豊かに実り、ホルターネックに寄せられて深い谷間を形成する胸。水着である程度矯正されていることを考慮しても、大きいだけでなく形も整っている。そのまま視線を下ろせば、きゅっと引き締まった腰と可愛らしいおへそが目に入り、パレオスカートから伸びるほど良い肉付きの美脚は滑らかな脚線美を描いている。


 綺麗で、可愛らしくて、清楚さもあり、そして正直――


(ちょっとエロい……)


 思わず浮かんだドストレートな感想に雄一は呻いた。そんな様子をマイナスな意味に捉えてしまったのか、澄乃が少し目を伏せる。


「あの……似合ってない、かな……?」


「え……いや、そんなことはないぞっ!? すごく良く似合ってる!」


 ようやく回ってくれた口で、雄一は慌てて褒め言葉を口にした。


「その、似合い過ぎてて圧倒されたというか……言葉を失ったというか……。とにかく本当に良く似合ってて……最高だと思う。不安にさせて悪かった」


 さっさと感想を口にしないせいで澄乃を不安にさせてしまったのだ。完璧なコーディネートを披露してくれた澄乃に申し訳なくなってしまい、雄一は頭を下げて謝罪の言葉を口にした。


 ……ついでに刺激的な水着姿から目を逸らすことで、一旦気持ちのリセットを行う。


「そっか……なら良かった。一昨日買ったばっかりだったから、ちょっと不安だったんだ」


 ある程度平静を取り戻したところで顔を上げると、ほわりと表情を緩めた澄乃が自身の水着姿を見下ろしていた。


「買ったばっかりって……水着持ってなかったのか?」


「うん。引っ越しの時には持ってこなかったから」


「そうだったのか。……悪い、急にプールなんかに誘って。余計な出費だったろ?」


「ううん、余計なんかじゃないよ」


 柔らかい微笑を浮かべた澄乃が正面から雄一を見る。いつもの可愛らしいものとはまた違った、落ち着いて淑やかな笑み。今すぐにでも写真に収めたい表情から目を離せないでいると、薄い桜色に色付いた澄乃の唇が動いた。


「褒めてくれてありがとう。すごく嬉しい」


「…………ぉう」


 断腸の思いでそっぽを向いた雄一は短く答えた。本音を言えばもっと見ていたいぐらいだが、これ以上目を合わせていると気がどうにかなりそうだ。


 照れているのは澄乃にもバレバレなようで、楽しそうに「ふふっ」と笑った彼女は雄一の横を通り抜けてプールの方へ足を向ける。


「そろそろ行こっか。英河くんはどこからがいい?」


「あー……まずは流れるプールとか?」


「あっ、それいいね。まずはのんびりと」


 軽やかな足取りで歩き出した澄乃の後ろを付いていく。と思うと、ふと振り返った澄乃が「英河くん」とこちらを呼ぶ。


「今日はめいっぱい楽しもうねっ」


 ふわりと広がる銀髪が夏の日差しを浴びて輝く。それに負けないぐらい眩しい笑顔を浮かべる澄乃は、水辺に舞い降りた女神のように綺麗だった。

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