第47話『ゼロ距離』
「あー……」
湖に隣接した休憩スペースのベンチの一角。夕日が照らすその空間で、濡れネズミと成り果てた雄一の唸りが無常に響いた。
結局、澄乃の帽子をすんでのところで救出した雄一だったが、自身は成す術もなく湖へ落下。全身ずぶ濡れの目も当てられない惨状になってしまった。これが澄乃だったら水も滴る的な表現が似合うだろうけど、とてもじゃないが自分はその域に達することはできない。
今日のためにせっかく整えた髪も色々と悩んで着てきた服も見事に台無しだと、パークのスタッフが厚意で貸してくれたタオルで髪の水分を取り除きながら、雄一は落胆の色を浮かべた。
――まぁ、落ち込みはすれど後悔はしていないのだが。
「はい、英河くん」
澄乃が二枚目の真新しいタオルを差し出してくる。ベンチに腰掛ける彼女の腿の上には、一つの水滴もついてない綺麗な状態のベレー帽が置かれていた。無事で何よりだ。
礼を言って澄乃からタオルを受け取ると、今度は下半身の方の水分を拭き取りにかかった。すでに上の方は、スタッフに頼んで買ってきてもらったTシャツに着替えている。パーク内の土産物屋に売っている商品で、白地にパークのロゴがプリントされただけのシンプルなものだからありがたい。
ちなみに着替えの際、上半身裸になった雄一の姿に澄乃が顔を真っ赤にしたのは余談である。
「大丈夫、寒くない?」
気遣わしげに様子を窺う澄乃に、雄一は「大丈夫」と答えながらタオルを押し当ててスキニーパンツの水分を吸い上げていく。真夏なのが幸いしたのか、多少の肌寒さは感じても悪寒というほどではない。
財布類は事前に下ろしていたバッグの中だったし、スマホは撮影のためスタッフに渡してあった。何だかんだで被害は身体と服だけに留まっているので、そういう意味でも幸運だったと言えよう。
「白取は大丈夫か? 水かかったりしてないか?」
湖に落ちた時にはだいぶ派手な水飛沫を上げたので、もしかしたら近くにいた澄乃も少なからず被害を被っているかもしれない。
澄乃はふるふると首を振った。
「私は大丈夫」
「そっか。なら良かった」
「――良くないよ」
安心したように笑う雄一を、澄乃の声が制止した。
思わず手を止めて顔を上げると、澄乃がこちらをじっと見つめている。いつもの彼女にしては珍しく、わずかばかりの怒りを滲ませたその表情で。
「どうしてあんなことしたの?」
「どうしてって、あのままだと帽子が――」
「だからって湖にまで飛び込まなくても良かったでしょ。もしかしたら怪我したり、溺れたりしたかもしれないのに……!」
「それは……」
確かに澄乃の言う通りだった。
スタッフの人達のフォローのおかげで危なげなく湖から上がることのできた雄一だが、行動としては短慮だったと言わざるを得ない。事実、あの時の雄一はほぼ反射だけで動いていて、怪我やそういったリスクに対する思考は放棄されていた。スタッフに頼むなりして回収してもらうのが一番安全な方法だっただろう。
澄乃の怒りは、心配はもっともだ。それは理解できる。
けれど。
「こんな帽子ぐらい――」
「ぐらいじゃない」
詰め寄ろうとする澄乃の動きを、今度は雄一の声が制止した。
「俺にとっては……ぐらいじゃなかったんだよ。だって、今日の白取――」
――最初のお披露目も英河くんが良いかなって思って。
今日の初めの、そう言って帽子を被る彼女の笑顔が脳裏を掠めて。
「本当に、可愛いと思う」
雄一は、想いのありのままを伝えることにした。
動きを止めていた澄乃の瞳が少しずつ見開かれて、放心したように口が開かれる。
分かっている。あの言葉はきっと、社交辞令のようなものでしかない。自分と澄乃は恋人同士でもないのだから、自分のためを想ってお洒落してきたくれたなんて、そんな思い上がった考えはしない。
それでも、たとえ気まぐれのような行動だったとしても、今日の澄乃はどうしようもなく眩しく見えるから。
だから最後の最後まで、その姿を崩したくないと思った。帽子が濡れてしまってはそれも叶わないし、下手をしたら型崩れを起こしてせっかくの新品が台無しになってしまうかもしれない。そんな考えが雄一を突き動かして、気付けば湖の上に身を投げ出していた。
「いつもが可愛くないってわけじゃないぞ? ただ今日は、いつにも増して可愛いっていうか……」
今にして思えば、本人も前にして「可愛い」なんて直接的な言葉を口にするのは初めてだった。心の中では何度を思っていたのに、実際に言うのとそうでないとではまるで違う。頬にどうしようもないぐらいの熱が集まっているのは感じても、それでも雄一は言葉を止めない。
澄乃が真剣に身を案じてくれた以上、同じ真剣な気持ちで返すべきだ。
「その帽子もさ、良く似合ってると思うよ。もちろん帽子だけじゃなくて、服とかそういうの全部含めて……その、なんだ……本当に、可愛い。だから――」
続く言葉は、突如として顔面に押し付けられた物体によって遮られた。
視界いっぱいに広がる青色と、ほのかに香る花のような香り。
ややあってから帽子を押し付けられていることに気付いた雄一は、澄乃の突然の行動に戸惑ってもごもごと口を動かす。
「いひなり
「ちょっとそのまま」
帽子の向こう側で澄乃が囁く。表情こそ窺い知ることはできないが、怒りの色は無くなったように思える。なのに不思議な強制力があって、雄一はただじっと待つことしかできない。
(そのままって……)
息苦しいとまでは言わないが、それでも息がし辛いのは確か。そのせいで普段より呼吸が荒くなり、比例して澄乃の残り香が嗅覚を刺激してくるのだから落ち着かない。
変態的思考に染まりつつある脳内を雄一が必死に自制していると――
「英河くんの、ばか」
随分と可愛らしい罵倒が聞こえた。
反論もできずにじっとしていると、ようやく顔面の拘束が解き放たれる。
開けた視界の先に待っていたのは、頬を夕日に負けないぐらいの朱色に染めて、なのに穏やかな笑みを浮かべた澄乃の端正な顔。
その口がゆっくりと開く。
「ねぇ、写真撮ろ?」
「へ?」
「だから写真。結局さっき撮れなかったから。ツーショット」
「あ、ああ……。じゃあ、誰かに……」
「いいよ、これで撮れるから」
近場の人を探して雄一が周囲を見回そうとした矢先、手早く自分のスマホのインカメラを起動した澄乃が素早く距離を詰める。急に縮まった距離に雄一が驚くのを他所に、澄乃は「ほら」と画面を振って雄一を促した。
なんとか平静を取り戻してカメラに目を向ける雄一だが、画面に映る自分の姿は少し見切れている。
「それじゃちゃんと映らないよ? もっとこっち来て」
「いや、来てって言われても……。俺、まだ濡れて――」
「いーから」
雄一の片腕に細くて柔らかい感触が巻き付いたかと思えば、間髪入れずにぐいっと身体を引かれる。必然的にゼロになる、澄乃との距離。
柔らかくて、暖かくて、良い匂いがして。特に二の腕辺りに感じる格別の弾力に、喉元の奥から変な声が上がりそうになった。
「はい、チーズ」
パシャリと、小気味よいシャッター音。
ほんのわずかの読み込み時間を経て表示された一枚の写真を見て、澄乃は口許を緩やかに弛ませた。
「ふふっ、英河くん顔真っ赤」
「ぐっ……。それはほら、夕日のせいだろっ。大体そんなこと言ったら、白取の方がよっぽど真っ赤じゃないか」
写真と実際の澄乃、その両方を指して雄一は答える。ドギマギしている自分と違って落ち着いてる彼女が何だか恨めしい。
けれどそんな雄一の指摘を受けても、澄乃は穏やかな笑顔を浮かべたまま。
「うん、そうだね」
全てを受け入れたかのように、そう呟いた。
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