第44話『キャラクターショー』

「んぅ……んん、……ぅーん……?」


 すぐ隣から聞こえる可愛らしい声が、般若心経やら素数やら数式やらで脳内を埋め尽くそうとしていた雄一の意識を中断させた。顔自体は前に向けたまま目線だけをそちらに向けると、絶世の眠り姫はようやく目覚めの兆しを見せている。


 時間にして十分かニ十分か。体感としてはそれ以上な気もするが、時間なんて些末な問題にリソースを割くほど、雄一の処理能力に余裕は無かった。


 そもそも澄乃に寄りかかられた時点で限界一杯だった。頭ではいけないと分かっているのに身体は正直で、澄乃の無防備な姿を余さず記憶しようとして感覚は鋭敏化。断腸の思いで何とか視線と手だけは外したけれど、触れ合った肩から伝わるものだけはどうしようもない。むしろ行き場の無くなった欲が余計に肩の触覚や聴覚に集中して、澄乃の温もりや吐息を丹念に拾い上げてしまうのだから最高――もとい最悪――やっぱり最高だった。自分に嘘はつけない。


 とにもかくにも、このベリーハードな生殺し状態を乗り越えた自分を褒め称えたい気分だ。少しだけ髪や頬に触れた辺り、厳密には我慢し切れたとは言えないかもしれないが、写真を撮らなかっただけで良しとしたい。


「んー……? あれ、あぃかわ、くん……?」


 まだ寝惚けているらしい。しょぼしょぼとした藍色の瞳をこすりながら、澄乃が寝起きの甘ったるい声音を出してくる。至近距離での身じろぎによって、雄一の二の腕辺りにふにっとした柔らかい“何か”が押し当てられた気がするが、きっと気のせいだ。気のせいだと言ったら気のせいなのだ。


 寝ても覚めてもこちらの鼓動を際限無く早めてくるのだから、もっとやれ――じゃなくて、いい加減にして欲しい。これは本心。じゃないとこちらが持たないから。


「おはよう。良い夢は見れたか?」


 せめて顔面にポーカーフェイスだけは貼り付けて返事をする。


「おはよう……?」


 会話こそ成立しているが、まだ澄乃の意識ははっきりとしていない。ひょっとして寝起きはあまり良い方ではないのだろうか。まあ、優秀な頭脳を持っている彼女のことだ。頭の中に色々なソフトを搭載している分、再起動には時間がかかるのかもしれない。


 ゆっくりと、澄乃の意識が覚醒するのを待つ雄一。


 控え目に「あふっ……」と欠伸をした澄乃は雄一の顔を眺めて、次に緩慢な動作で周囲を見回し、そしてまた雄一の方に視線を戻して……ようやくその瞳が大きく見開かれた。


 次の瞬間、「ひゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げて飛び退いた澄乃は、今の今まで雄一と触れ合っていたことに気付いて顔を真っ赤に染め上げる。


「私、寝てた……?」


「ああ、結構ぐっすりと」


「ど、どれくらい……?」


「……五分ぐらい」


 わざと下方修正して答える。澄乃に気を遣っての行動だが対して意味は成さず、依然として彼女は羞恥で小刻みに震えている。何か気の利いた言葉でもかけてその羞恥を和らげたいとは思うけれど、いくら引っ掻き回しても雄一の辞書にはそんなものは存在しなかった。


 お互いに気恥ずかしさで何も言えず、ただ漫然と流れていく時間。ややあってから、澄乃が意を決して口を開く。


「お見苦しいところを、お見せしました……」


「お気になさらず……」


 本日三度目になる謝罪に、雄一もまた同じような台詞を返す。見苦しいどころかとても可愛かったのだが、さすがに面と向かって口にするのは無理だった。











 少しの間を置いて、お茶を飲むなり深呼吸するなりで平常心を取り戻した二人はパーク内の散策を再開した。午前中は人気の絶叫系アトラクションを中心に回ったので、午後からは空中ブランコやパーク内を回る遊覧船など落ち着いたものを主軸に回っていく。一つの世界観の下に造り込まれたパーク内には色々な発見があり、見て回るだけでも十分に楽しめた。


 お互いに乗りたいアトラクションや寄りたい店を出し合い、パーク内を回り続ける。そして澄乃の希望した店に向かおうとしている途中、道に設置されたスピーカーから園内放送が聞こえてきた。


『このあと十五時半より、第三エリアのステージでキャラクターショーを行います。どうぞお立ち寄りください』


 雑踏の中でも聞き取りやすいアナウンスが口にした『ショー』という単語に、雄一の眉がピクリと動く。隣の澄乃が目敏くその反応を捉え、可笑しそうにくすくすと笑った。


「観に行く、キャラクターショー?」


「あ……でも、今は白取の行きたいところに……」


「お店は逃げないから後で大丈夫。同業者としては気になるんでしょ?」


 見透かしたように澄乃が微笑む。


 同業者と言うと語弊があるような気はするが、ヒーローショー等の活動に精を出している雄一としては、澄乃に言われた通りショーというものに並々ならぬ興味がある。少し迷った後、「悪い」と言って頭を下げた雄一に澄乃は「いえいえ」と微笑むと、道案内と言わんばかりに先導して歩き始めた。


 二人の今いる場所からショーの行われる第三エリアはそれなりに距離があった。辿り着いた頃には客席は全て埋まっていて、立ち見の客もかなり多い。このテーマパークのマスコットキャラ達が出演するショーらしいが、人気の程は中々のようだ。


 上手い具合に人の切れ目があるところに二人が陣取ると、ちょうど良くショーが始まった。


 舞台袖から順繰りに登場した計四体のマスコットキャラがステージ上を動き回り、スピーカーから流れる台詞に合わせてコミカルな演技を繰り返す。その様子はとても可愛らしくあるが、やはりヒーローショーに比べれば派手さという点では劣るだろう。


 けれど雄一の興味は尽きず、より真剣な眼差しでショーを鑑賞し続ける。かなり集中してしまっていたようで、我に返った頃には隣の澄乃がまた可笑しそうに笑っていた。


「ふふっ、私、そんな真剣な目でキャラクターショー見てる人、初めて見た」


「……悪い、ちょっと没頭してた」


「ううん、気にしないで。でもちょっと意外。同じショーでもヒーローショーとは毛色が違うから、そこまで興味を持つとは思わなかったかな」


「んー……確かに毛色は違うけど、基本的な部分は似てるからな。身体の動かし方とか、間の取り方とか……うん、やっぱりプロの人達の動きは参考になるよ。特に顔の見せ方」


「顔の見せ方?」


 首を傾げる澄乃に雄一は頷く。


「ああいうマスコットキャラってのは顔が肝だろ? だからなるべく、その大事な顔を客席に向けたまま動いてるんだよ。例えば……ああ、今やってる演技なんて分かりやすいんじゃないか?」


 最前列のキャラが、背後にいるキャラに向かって呼びかけるシーン。自然な動きなら後ろに振り返るところだが、首は少し後ろに向けるだけで、あとは大きな手振りで呼びかけを表現している。雄一の言う通り、あくまでキャラの肝となる顔は正面を向いたままだ。


「あ、ほんとだ……。へえ、そういうことに気を付けて見たことは無かったなあ」


「まあ、普通はそんなこと気にしないだろうしな」


 苦笑してそう告げる。雄一の場合、自分が同じ舞台に立ったらどんな風に動くだろうかと考えているところもあるので、ある意味職業病のようなものに近い。楽しみ方としては特殊な部類に入るだろうし、人に勧められるようなものでもない。


 なのに澄乃は雄一の見方を真似しようとしているのか、これまた真剣な眼差しをマスコットキャラ達に注いでいた。鑑賞というよりは観察だ。その様子が可笑しくて、雄一は気付かれないように口許を緩めた。


「ん……?」


 その最中、雄一の目が少し離れた位置にいる親子を捉えた。母親と、その手に繋がれた小さな男の子。母親の背には赤ちゃんも背負われている。


 恐らくこのショーを見に来たのだろうけど、客席は全て埋まっているし、親子の前には立ち見の客も大勢いる。母親まだしも、男の子は身長の関係上ほとんどステージが見えていないはずだ。赤ちゃんがいる以上、男の子を抱えてというのも厳しいだろう。


 落胆した様子で駄々をこねる男の子と、それを優しくあやす母親。


 そんな親子を見ていたところで、雄一の袖がくいっと引かれた。


「英河くん」


 声の主はもちろん澄乃。雄一の視線の先を一瞥した澄乃は、何かを察したように笑って頷いた。


 ――どうやら、考えていることは同じらしい。

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