【前編 / 01】 二人目のファウスト ─── 02

 その一週間後。

 俺に訪れたのは、完全に予想外の出来事だった。

(そ……そんな、うそだろ)

 配られた中間考査の成績個票を握りしめ、俺は背を震わせる。各科目ごとに並ぶ点数と偏差値、そして順位。その最後、総合項目のところに――初めて見る数字が印字されていた。

 ――総合順位、二位。

 バカな。あるわけない。

 今まで取ったことのない順位に眩暈がした。嘘だ、と何度も見返すが、くっきりと刻まれた黒い文字は揺らぐ気配もない。信じられなかった。

 思わず周囲を見回す。俺じゃないなら一位は誰だ。だがそんなこと、聞いて回るなんてできるはずもない。このクラスに一位がいる保証もないし、そもそも、自分がいつも一位だということすら、誰にも話していないのに。

 くそっ、と内心で毒突く。不機嫌なオーラを押し殺しながら、親の仇のように個票を睨んでいると、背後から楽しげな声が聞こえてきた。宗像の席だ。

 ちら、と一瞬だけ振り返る。宗像は何人ものクラスメイトたちに囲まれていた。集団は男子も女子も入り混じっている。楽しそうな笑い声。

(リア充め)

 この転校生は越してきて早々、あっという間にクラスのカーストトップに躍り出た。明るくさっぱりと男らしい、頼りになる性格で、女子にも男子にも大人気。いつも人に囲まれている。

 さらに宗像は運動神経に秀でたスポーツマンで、体育にもなれば独壇場。ソロはもちろん、気配り上手でチームプレイもお手の物。剣道の授業では部員相手にたちまち全勝で、女子がきゃあきゃあやかましいくらいだった。

 授業で当てられたときだって、どんな問題でもそつなく答えてみせる。それどころか同じように当てられたクラスメイトに、さりげなく助言までする始末。

 そのくせ、これらの長所を鼻にかけるそぶりもない。あまりにも出来すぎて、逆にうさんくさい男だ。

 ちっ、と舌打ちまじりに視線を前に戻したとき、

「えー、すごい! 宗像くん、学年トップだったんだ!」

(――っ!?)

 がたっ、と椅子が鳴ったのを、俺はうまく隠せただろうか。心臓がばくんと鳴る。おそるおそる振り向く。

 級友たちの笑顔に囲まれ、宗像はさらりと笑っていた。すげえなおまえ、と一人が彼の肩を叩く。

「転入翌日に試験だろ? なに、前の学校、ここより進んでたの?」

「いや。進学校って聞いて、すげえ頑張って予習してきた」

 嫌味のない笑みで宗像は言う。頑張りすぎだろ、とツッコミが入り、一同が湧く。ほんとそれな、と宗像が笑う。さらりとした謙遜とにこやかな応対にはまったく嫌味が感じられず、そつがない。

(う……うそだろ……)

 俺がこれまで、寝食を削ってまで保ってきたものが、こんなにも、あっさりと。

 わなわなと指先が震える。打ち込んだ錨が揺れて、足元がたちまち不安定になる気配。嫌だ、と反射的に思う。腹の底が冷たくなる。

 宗像はまだ、友人たちと話し込んでいた。成績の話題はあっさりと移り変わり、今は放課後の過ごし方についての話になっていた。そのことが余計に『学年トップなんて大したことない』という雰囲気を醸し出していて、どうしようもなく鼻についた。

「ね、今日、みんなでファミレスで勉強しようよ」

「悪い。俺、部活あるんだ」

「あれっ、どこ入部したの?」

「生研……っと、略称かこれ。生物研究部」

 聞き耳を立てた肩が、ぴく、と跳ねる。そんな部活はなかったはずだ。研究系の部活は入学時ひととおり見て回ったから、覚えている。

 だが宗像は実にさらりと言った。

「昔あった部活で、部員ゼロで廃部になってたらしいんだけど。一昨日かな。先生にやりたいって言ったら、すぐ再建させてくれてさ」

(な――っ)

 そんなバカな。部活動の設立、再建は、部員を五名以上集めないと無理なはずだ。俺はそのことを、身をもって知っている。

 同じ疑問を抱いたらしい、ひとりの男子がそれを尋ねると、宗像は「そうらしいな」と言った。

「ただ俺、前の学校でも生物やっててさ。いくつか賞取ってるんだ。その研究を継続でやりたい、って資料とか持ってったら、案外なんとかなった」

 そう言って彼は賞の名前を挙げる。俺でも知っている、高校生が取れる中ではトップクラスの賞ばかりだった。

 くら、と眩暈めいたものを覚える。足元が一気に、不確かになる感覚。個票を握る指先に力がこもって、くしゃ、と紙が乾いた音を立てた。

「部員って今、何人?」

「まだ俺だけ。入る?」

「いや、勉強はもう十分だって! なんで放課後まで実験するかな」

「え? 趣味」

「うえー……学年トップの言うことは違うな」

「なんだそれ」

 笑い声。じゃれるように小突き合う気配。和気藹々とした雰囲気。くらくらする。

(なんで……俺は、だめだったのに)

 物理部を立ち上げたい。俺がそう言ったときは、どんなに頑張っても通らなかったのに。部員が足りなければ駄目の一点張りで、どんな資料も、今までの成果も、見てすらもらえなかったのに。

 足元が一気にさらわれて、ぐら、と不安定になる。打ち込んだ錨が抜けていく。たちまち訪れる、底が抜けたような心許ない感覚。

(くそっ、くそっ、……くそっ)

 内心でありったけの舌打ちと罵倒をぶちまけて、そばだてた耳なんて、今すぐ塞いでしまいたい。それなのに俺の意識はちっとも言うことを聞かずに、宗像たちの明るい笑い声を一言一句聞き取っている。

「どういう研究してんの」

「えーっと……最初は昆虫やってたんだけど、最近はマウスを使うようになって。本当はラットのがいいんだけどな。外的要因で脳を変質させて、特定のシチュエーションで行動パターンの比較を――」

「ま、待って待って。わっかんねー……!」

「そう? 噛み砕いたつもりだったけど」

「もっと砕いて! ペーストくらい! 宗像に比べたら俺ら、赤ちゃんだから。離乳食でお願いします!」

「ははっ、でっかい赤ちゃん」

 耳に飛び込んでくる声は楽しげで、明るくて、清々しくて、まっすぐだった。真正面に光の当たる道を歩くことが、当たり前の人間の言葉だった。

(……息が詰まりそう)

 は、と小さく息を吐いて、目の前には二位の印字。背後には宗像たちの笑い声。不安定な足元、曖昧な世界で、空っぽの身体が、ぐらりと揺れていく気配。

 俺はそろそろと指先で眼鏡を整えると、強く掴んだせいで跡のついた個票を、ぐしゃっ、と机の一番奥に押し込んだ。



 

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