第47話 敗走

 戦場の奥へと馬を走らせるにつれて、凄惨な風景が次々と目の前に現れてくる。

 足元には動けなくなった敵味方の体が入り乱れ、泥と血にまみれた青や金色の房飾りが点々と落ちている。アルウィンの見覚えのある騎士たちもいた。まだ息はあるが、深い傷を負って動けずにいる者も。主を失った馬がふらふらと彷徨い、不安げにいなないている。

 アルウィンは、馬から飛び降りて、崖の壁にもたれかかるようにして浅い息をしている一人の騎士に近づいた。

 「大丈夫か」

携帯していた水を口に当てて含ませる。

 「…う」

 「この辺りで近衛騎士のウィラーフ・レスロンドを見かけなかったか。」

かじりつくように水筒の中身を喉に流し込むと、騎士は、朧気な瞳でアルウィンを見上げた。

 「あんた…王宮の解放に来た…?」

 「そうだ。味方だよ、だから教えてくれ。彼は何処に消えた」

 「この…先」

騎士は、震える腕を精一杯上げて、一方を指差す。そちらを見ると、腹に槍を刺されて死んだ馬と、馬にもたれかかるようにして息絶えている騎士が見えた。

 メルヴェイルだ。

 胸のあたりを細い剣で一突きされている。この戦い方は、たぶんウィラーフだろう。

 とすると―― 残りはウィンドミルか。だが、騎士には言葉を発する力はもう残されていない。アルウィンは側をうろついていた馬を捕まえて騎士の身体を引っ張り上げた。

 「しっかり掴まっていろ。少し走れば味方の陣に出る」

馬の尻を叩いて走らせると、彼は、再び馬に飛び乗ろうとした。


 その時だ。

 崖の上から放たれた一本の矢が、アルウィンの脇腹を掠めた。痛みが走り、彼は思わず馬を滑り落ちそうになる。

 「アルウィン!」

ワンダが飛び出そうとするが、それより早く、どこからともなく駆けつけた浅黒い肌の男が、自らの体を盾にアルウィンの前に立ちふさがった。

 全身が筋肉の束のような強靭な肉体に、上半身はほとんど裸。手には無骨な刃を握り、背には弓を背負っている。

 「え…? あなたは…」

どう見ても、北方人だ。アスタラの民。

 男は無言に弓をとり、引き絞ると、岩陰に隠れた弓兵目掛けて矢を放った。その矢は過たず敵の喉元に命中し、敵兵は、仰向けに崖の向こうへと消えていく。

 周囲に他に敵の気配がないことを確かめると、男は振り返って馬上にあるアルウィンとほとんど同じ高さの視線で彼を見つめた。

 ようやく、アルウィンも思い出した。クローナの門がオウミたちによって破壊された次の日、手勢を率いて現れたアスタラの十三氏族のうちの一つ、ヨルド族の男。

 「遅くなった。エラムスだ」

訛りのある共通語で言って、男は大きな手を差し出した。握手、…のつもりらしい。

 片手を差し出して応じながら、アルウィンは尋ねる。

 「もしかして、援軍ということですか」

 「そのつもりだ。妖精が現れて王国に危機が迫っていると告げた。」

 「妖精…?」

 「アルウィン、怪我してるんだぞ」

ワンダが駆け寄ってきて、血の滲む脇腹を指した。

 「ああ、このくらいなら――」

本当は、大丈夫、とは言えない。幸い矢は貫通しているが、脇腹の傷口から滲み出した血は、上着にも染みを作っている。

 だが、今はこの程度で泣き言を言っている場合ではない。

 彼はシャツの裾を引き裂いて傷口を縛り、前を向いた。

 「行かないと。ウィラーフはきっと、この先にいる」

 「お供しよう」

と、エラムス。

 「ふんふん…匂いするぞ。…あっちだ!」

鼻を鳴らしてワンダが駆け出した。アルウィンたちも後を追う。


 もう、戦場のかなり端のほうまで来ていた。”死の海”の、海のように見えている暗い色の縁が、すぐそこにある。さっきから、嫌な匂いの混じる風が吹いていた。アルウィンは、この荒野に入った時、最初にディーに言われたことを思い出していた。


 『この谷は毒霧が溜まりやすい』

 『毒霧が流れてきたとき、馬は本能的に逃げようとする。無理に逆らわず馬の本能に従ったほうがいい』


アルウィンは、連れてきた馬と、傍らを走るワンダとを見比べた。どちらかが危険を察知した時は、その先へは行けない。果たして、風向きが完全に変わるまでにウィラーフを見つけられるだろうか。

 やがて、岩肌が変色し、不吉な黄色い結晶体が岩の間にこびりついている辺りまでやってきた。かつてクロン鉱石の兵器が使われた痕跡がある。

 けれどアルウィンは、その先に二人がいることを確信していた。風に混じって、ぶつかり合う鋼の音が聞こえてきたからだ。戦っている。ということは―― ウィラーフは、まだ生きているということだ。


 唐突に両脇の崖が切れ、視界が開けた。

 強い風が押し寄せてくる。


 そこは、”海”の縁の真上だった。眼下には、黒ずんで凹んだ大地が見えている。イルネス砦の辺りからは、まるで本物の海のように見えていた場所。深く削り込まれた大地に瑪瑙のような縞模様を染みつけている。その窪みの下の方から、匂いが上がってくる。馬がいななき、数歩、後退った。

 「アルウィン…、この先、だめだぞ…」

ワンダも、耳をぺたりと伏せたまま、じりじりと後ずさる。

 「ウィラーフ!」

アルウィンが叫ぶと、その声は、風に乗って窪地にわずかに反響した。

 「時間がない。風向きが変わって毒霧が上がってくる!」

アルウィンたちが現れたのに気づいて、ウィンドミルは笑った。兜はとうになく、額が大きく切れている。

 「ぐずぐすしている間に観客が来たようだぞ、レスロンド。」

 「――そろそろ終わる」

答えるウィラーフのほうも、何箇所かの傷を負っている。二人とも、どこかではぐれてしまったのか、馬には乗っていない。盾はどちらのものも、足元に切り裂かれて落ちている。二人の腕は、ほぼ互角。決着がつかないまま、何時間も戦い続けていたのだ。

 先に動いたのは、ウィラーフのほうだった。

 流れるような剣さばきで打ち込んでゆくのを、ウィンドミルは最低限の動きで受け流す。打ち返そうとするのをウィラーフが篭手で弾き、さらに攻撃を重ねてゆく。

 命を賭けた戦いだというのに、それは「美しい」とすら感じる光景だった。


 風向きが変わった。

 アルウィンの乗っていた馬がぴくりと反応し、嘶きながら後ろへ後ろへと下がり始めた。毒霧が流れて来ているのだ。

 「ウィラーフ、息を止めろ!」

戦っているウィラーフに、その声が届いたのかどうか。一瞬、足がふらついた。その隙を狙って、ウィンドミルが剣を真っ直ぐに打ち込んでくる。ウィラーフは両手を上げる。切っ先は彼の喉元を突き抜け――

 「危ない!」

ワンダは声を上げた。ウィラーフが刺されたと思ったのだ。だが彼は、すんでのところで躱している。頬が切れ、血がほとばしる。二人は、縺れ合ったまま”海”の縁へ倒れこむ。

 アルウィンは馬を飛び降りて走った。

 「ウィラーフ!」

転がり落ちそうになるのを、すんでのところで掴む。見下ろすと、ウィンドミルは荒い息をつきながら崖にぶら下がっていた。

 「…いい勝負だった。」

にやりと笑ったのも束の間。

 その瞳から光が薄れ、指が離れる。命の火が消えたのか、それとも毒霧を吸い込んで意識を失っただけなのか。黒ずんだ大地の底へ転がり落ちていく男にとっては、どちらも結論は同じこと。たとえまだ命があったとしても、死の大地の奥底からは、誰も生きて再び這い上がれない。


 アルウィンは、駆け寄ってきたエラムスと一緒にウィラーフの体を引きずり上げた。

 「生きてるか?」

 「なんとか…」

勝ち残ったとはいえ、甲冑はあちこち切り裂かれ、隙間から血が滴っている。

 「はやく、はやく! 逃げないと」

ワンダが、逃げようとする馬の手綱を握ったまま急かしている。

 アルウィンは、ウィラーフに肩を貸して馬まで歩かせた。風は”海”に向かって渦を巻きながら流れ込んでいる。風上へ向かうなら、元来た道よりは、”海”の縁を遠回りしたほうがいい。

 「アルウィン様、どうしてここへ…戦況は? どうなったんです」

 「いいから、まずは馬に乗って」

ウィラーフを馬に押し上げながら、アルウィンは、どう伝えればいいのかと考えていた。

 王の傷は―― 多分、浅くはない。

 蒼白な顔と滴る血。それに、デイフレヴンともども、ひどい火傷を負っていた。最悪、二人とも助からないかもしれない。

 そう思った途端、彼は、今さらのように背筋が凍りつくのを覚えた。味方の体制を立て直すことに必死で、その後のことまで思いが及んでいなかった。


 もしも王が二度と戦場に立てなかったら。

 明日、再び旧エスタード領の勢力の総攻撃を受けて、持ちこたえることが出来なかったら。

 ――その時は… この時間稼ぎさえ、無駄になってしまうかもしれない。


 王国軍はほぼ半壊。撤退は敗走と呼び替えても良いほどの惨状で、戦場には悲壮感が漂っている。

 日が暮れてゆこうとしている。戦場には束の間の静けさが落ち、人を寄せ付けない毒を含んだ風が、二つの陣営の間を分かつように流れていた。

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