第8話 公爵家にて

がらんとした広い廊下の1番奥にある部屋。

重厚な枯葉色の扉の前に、私は立っていた。

(この扉の向こうにウィリアム様がいらっしゃる)

心が高揚するのを感じながら、私は喜びに胸を膨らませた。










私がウィリアム様の護衛騎士へ推薦されると決定したあの日から数日。

辞令を受け取るが早いか、私は即座にムーア公爵家の本邸へ移る事を余儀なくされた。

孤児であったため元々私物があまり無かった私の荷物は少なく、引っ越しは鞄一つで済んでしまった。


その事に些か寂しさを覚えたが、『荷物整理の手間がない分早くウィリアム様の元へ行ける』と思い直した。

身の回りのものと数冊の本、見習い時代から大切にしている槍、そしてムーア家の領地にやってきてから時折海岸に行っては気まぐれに集めている貝殻を瓶に詰めて、私はムーア公爵家本邸へと降り立った。











そして今日は護衛騎士として初めてウィリアム様と顔を合わせる日。

こうして真新しい護衛騎士の正装に身を包み、ウィリアム様の御部屋の前に立つと身が引き締まるような思いだ。

緊張しながら扉をノックする。


「ムーア公爵卿、新しく配属になった護衛騎士のフローレスです。入室許可を願いたく存じます」


そう入室を請えば、


「入りなさい」


と少年の穏やかな声が呼応した。


「失礼致します」


声をかけながら扉を開ける。









まず目に入ったのは壁を埋め尽くす膨大な数の本。

大量の本は床をも侵食するように積み上げられている。

そんな部屋の中央で、私の主となる少年は机の上の紙束に何やら書き込んでいたが、手に持っていた羽ペンを机の上に置くとその瑠璃色の瞳を私の方へと向けた。


「君が新しく僕の筆頭護衛として配属された騎士だね。改めて名前を聞かせてもらえるかな?」


「はい。リア・フローレスと申します、ムーア公爵卿」


そう応えて敬礼する。

ウィリアム様は敬礼した私を見て僅かに眉を寄せた。


「…フローレス、君と僕は以前どこかで会った事はなかったかな。ごめん、どこで会ったかは思い出せないんだけど、どうにも君の顔に既視感があって…」


私はそれを聞いてとても驚いた。

ウィリアム様と私が会ったのは、私が見習いになりたての頃に水場で遭遇した一度だけ。

随分昔に二言三言話しただけのただの見習いの顔を覚えているだなんて…。

(ウィリアム様は大変優れた記憶力をお持ちでいらっしゃる)

内心で舌を巻きながら、私はウィリアム様に返答するべく口を開いた。


「…確かに、ボクとウィリアム様はお会いした事がございます。以前まだボクが見習いだった頃、治安維持部隊駐屯地の水場で…」


「ああ、思い出したよ。あの時は嫌な気分にさせてしまったね」


そう言いながら痛ましそうな顔をするウィリアム様に、私は首を横に振った。


「そんな事はございません。既に過ぎた事です」


「ありがとう、フローレス」


彼は礼を述べると、徐に立ち上がった。


「ねぇ君、悪いのだけれどそこの本棚の脇にある椅子をこちらに持ってきて座ってくれる?今、紅茶を淹れるから」


そう言って戸棚の方へ向かうウィリアム様の言葉にハッとして、


「そんな‼︎公爵卿自らの手で紅茶を淹れて頂くなど…‼︎」


動揺しながら彼を制止しようとすれば、


「気にしないで。紅茶を淹れるのは慣れているんだ」


彼は少し寂しげな顔で微笑んだ。

(ウィリアム様は公爵家令息。彼ほどの身分の貴族が自ら給仕をするのは"普通"ではありえない。しかも彼は『慣れている』と言った。何故…?)

そんな事を考えていた私は、


「フローレス、砂糖は1つで良いかな?」


というウィリアム様の言葉で我に返った。














「…さて」


机越しで向かい合うように座る中、私が紅茶で口を潤したのを見計らってウィリアム様は口火を切った。


「君は治安維持部隊の騎士団長や教官たちからの推薦でここに来たけれど、僕はまだ君の勤務決定に関する書類にサインをしていない。つまり、まだ君は僕の筆頭護衛騎士に決まった訳ではないということだ」


それを聞いて私は血の気が引いていくような心地がした。

『僕はまだ君の勤務決定に関する書類にサインをしていない』という言葉が意味するのは、他でもないウィリアム様ご本人が私の護衛騎士任命を拒んでいるのだということ。

(私は何かウィリアム様の気に触る事をしてしまったのだろうか…。それとも、私の実力に不安があるのだと遠回しに仰っている…?)

顔面蒼白になる私を見て、ウィリアム様は少し慌てたように口を開く。


「誤解しないで欲しい。君は何名もの騎士団関係者から推薦を受けるような人だ。さぞ素晴らしい騎士なのだと思っている。…僕は君に不満がある訳じゃない。僕がすぐに君を護衛騎士に任命しなかったのは、他に理由があるんだ」


「…理由とは何でしょうか」


私がその疑問を投げかけると、ウィリアム様は少しの間沈黙した後に息を吐き出した。


「本当に僕の筆頭護衛騎士になるのか、君にはよく考えてから決断して欲しいんだ。これから君には1週間僕の仮の護衛として僕と共に過ごしてもらう。そして1週間後に、もう一度僕の護衛騎士になるか否かの意思を君に問いたい」


私が呆気に取られていると、ウィリアム様は尚も言い募った。


「もちろん、護衛騎士の辞令を辞しても君に咎がいかないように取り計らうし、僕が責任を持って君の次の職を斡旋しよう。大丈夫、君がもし他の職を希望したとしても誰にも君を責めさせはしない」


頭の中に彼の言葉が徐々に染み込んでくる。

『意思を問いたい』と言いながらも、ウィリアム様の口ぶりはまるで、私が1週間後に護衛騎士を辞する事を確信しているかのようだ。


「何故、そのような…」


私がそう尋ねても、彼は憂いを帯びた微笑みを浮かべるばかり。

(どうしてそんな事を仰るのだろう。私の事が気に入らないから辞めさせたいのか?…いや、それにしてはやり方がまわりくどい。それにウィリアム様が意味もなくこんな事を言うとは思えない。何か理由がある筈だ。だけど…)

ウィリアム様の言葉について考えるほどに、私は悲しいような、苦しいような、堪らない気持ちになっていった。


(『1週間の試用期間を経たらこの騎士…リア・フローレスは、護衛騎士の任を"自分から"辞するだろう』と、ウィリアム様はどうやら本気で考えていらっしゃるようだ。性別を偽り訓練で血反吐を吐きながらも、貴方を守る為だけに今日まで生きてきたこの私が、貴方を公然とお守り出来る立場を自ら退くなんて有り得ないのに)


無意識に言葉を発しようとして震えた己の唇は、結局言葉を紡ぐ事が出来ず沈黙する。

(ウィリアム様は私がどのような思いでここにいるのかを知らない。私がどんなに貴方を守りたいと考えているのか、貴方を守りたいが為にどれだけ過酷な日々に耐えたのか。…分かっている、『ウィリアム様を守りたい』というのは所詮私の自己満足だ。でも…ウィリアム様にそんな気がなくても、ウィリアム様ご本人から私の決意を疑われるのは…)

私は目を瞑って大きく息を吸い込む。

(つらい…)





グッと歯を食いしばる。

(…冷静になれ。ウィリアム様にとって私は殆ど面識がない人間。数多いる騎士のうちの1人に過ぎない。私がウィリアム様を守りたいといくら強く願っていても、そんな事はウィリアム様の知るよしもない事だ。私が今、ウィリアム様に言うべきは…)

私は静かに目を開く。

そして目の前に座るウィリアム様の面貌を見据えた。


「ムーア公爵卿。ボクは、貴方に仕えると強く決意してここに来たのです。ボクが貴方の護衛騎士の任命を辞する事は有り得ません」


海のように深い色の瞳に視線を合わせる。


「貴方がボクの為に再考期間を設けたいというならば従いましょう。1週間後に改めてボクの気持ちをお話します」


そう言って私はウィリアム様を見詰めた。








それを聞いてもなお彼は只々穏やかに、そして哀しげに微笑するだけだった。


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