第6話 水場での邂逅
へろへろになりながら午前中の訓練を終えて、配給された昼食をライリーと共に食べている時の事だった。
「あっ…洗濯係に汗拭きを渡すの忘れてた…」
私がそう呟くと、ライリーはカジキのスープを飲み下しながらこちらへ視線を向けた。
「今からでも渡しに行けば?午前中使ったぐしょぐしょの汗拭きを午後も使うのは流石にキツいだろ」
「ボクもそう思う…」
壁時計を確認すると、もう昼休憩は半分を過ぎている。
「この時間だともう洗濯係は撤収している頃だね…。この汗拭きは自分で洗ってくる。ライリー、また後で」
私は残っていたパンを口に詰め込むと立ち上がった。
「おう、また訓練でな」
そう声をかけてきたライリーに軽く手を振ると、私は足早にその場を後にした。
ムーア公爵家騎士団には調理係や配膳係、風呂係など様々な係が存在し、週ごとに持ち回りで担当が変わる。
他の領地の騎士団ではそういった雑務を行う使用人を雇う場合もあるようだが、ムーア公爵家騎士団ではそのような使用人はいない。
遠征や野営などで自分たちの面倒を自分たちでみられるように、常日頃から生活力を養うためである。
洗濯係もそのうちの一つで、昼休憩の頭には汗拭きを、訓練後には衣類等を洗う手筈となっている。
尚、規定の物以外の洗濯物は自分で洗うルールだ。
やはり洗濯係は撤収した後だったようで、水場は静まりかえっていた。
遠くから微かに聞こえる騎士たちのざわめきを聞きながら水を汲む。
桶の中で汗拭きをギュッと押すと、汲んだばかりの澄んだ水にドロドロと汚れが滲み出た。
一心不乱に押し洗いしていると、手元に人影が落ちた。
騎士団の誰かだろうと思い気にせず洗濯を続けていたが、人影がずっと動かないので怪訝に思い顔を上げる。
そして、その人の顔を認めた途端、私は世界が止まってしまったかのような衝撃を受けた。
艶のある濡羽音色の髪に、深い海のような瑠璃色の瞳。
その白い肌は陶器のように滑らかで、垂れ気味の目から注がれる眼差しは深い知性を感じさせる。
派手さはないものの、見れば見るほど引き込まれるような整った顔立ち。
自分が知っているものより幼い顔立ちをしているが、間違いない。
この方は…
「ウィリアム様……」
私が思わずそう呟くと、彼はその視線を桶から上げて私の顔の方へと向けた。
その目は僅かに見開かれている。
「僕の事を知っているの?」
名前を呼んでしまった手前その言葉を否定する訳にもいかず頷く。
「僕は病弱で滅多に外に出ないから、僕の顔を知っている人は領内でも中々いないはずなんだけど…」
そう言いながら怪訝な顔をするウィリアム様。
それを聞いた私が内心冷や汗をかきながら
「…見習いといえどもムーア公爵家騎士団の端くれですので、公爵家の方々のお顔は存じております」
と言えば、ウィリアム様は少しの間私の事を眺めた後に
「そう…。君は勉強熱心なんだね」
と目を細めた。
何故ここに私が守るべき人であるウィリアム様がいるのか。
白昼夢でも見ているのではないかと思ったが、何度瞬きしても目の前の光景は変わらなかった。
…どうやらこれは現実らしい。
私がそんな事を考えているなんて知る由もないウィリアム様は再び桶に目線を戻し、何かを仰ろうと口を開きかけた。
その瞬間だった。
「ムーア公爵卿、そのような者に話しかけずとも騎士団長殿に話を聞きに行きましょう」
水場に甲高い男の声が響いた。
驚いてウィリアム様の後ろに目をやると、執事然とした背の高い男が厳しい目つきで私の方を睨みつけていた。
その男の他にも何人か使用人のような格好をした人々が立っていたが、皆一様に驚いたような顔をして発言した男を見つめている。
「そのような薄汚い格好をした者に近づいてはなりません。ただでさえムーア公爵卿は外においでになるお時間が短いのですから、時間は有意義に使うべきです。汗拭きを洗う小汚い見習いと話をしている暇などない、そうでしょう?」
一通り捲し立てて、鼻息荒く黙り込む男。
シン…とした静寂が場を包み、他の使用人たちが気まずげな顔で顔を見合わせる。
ウィリアム様はそんな使用人たちを暫く見つめていたが、使用人たちがこれ以上何も言葉を発しないのを見ると、男の方へ身体ごと向き直った。
「…君は何か思い違いをしているみたいだね」
男は何事か言葉を発しようとしたが、ウィリアム様のその強い視線に突き刺され、息を呑んだ。
「僕たちが日々過ごす事が出来ているのは、騎士団の彼らが治安を維持してくれているおかげだ。騎士団長であっても騎士見習いであっても、そこに役割の違いはあれど治安維持に尽力してくれているという事は変わりないよ。…確かに、そこにいる彼の身体は泥に塗れている。しかしそれは彼が鍛錬を重ねている証拠に他ならない」
ウィリアム様の眼差しが私を一瞥し、再び男を射抜く。
彼は静かな声で言葉を重ねた。
「君には彼のこの傷だらけの身体が見えないのか?傷だらけになりながら、土煙に塗れながら、鍛錬を重ねる彼の姿が小汚く見える?本当に?」
男は暫く凍りついたように顔を強張らせていたが、やがて唇を強く噛むと顔を俯かせた。
「…身体の弱い僕の事を案じてくれてありがとう。でも君は今回言ってはいけない事を言ってしまった。後で自分の言った事をよく省みてほしい」
ウィリアム様は俯く執事を見つめていたが、不意に私の方へ身体を向き直らせた。
「この汗拭きは、君のもの?」
そう尋ねられ、気圧された私は無言のままに頷く。
「そう…。たくさん汚れが染み出している。きっと君は日々苦しい鍛錬に耐えているんだろう。僕と同じような歳でありながら厳しい訓練に耐える君を尊敬する」
そして彼はその整った顔を僅かに歪め、
「嫌な気分にさせてごめんね」
と私に囁くと使用人たちと共に水場を出て行った。
私はその場で呆然としていたが、訓練開始の予鈴を聞き急いで訓練場へ向かった。
その夜、私は深夜になっても中々寝付けないでいた。
思い出すのは今日水場で見たウィリアム様の姿。
(ウィリアム様が生きていた)
ムーア公爵家の跡取りの名前がウィリアムだという話は聞いていた。
でも…
(本当にムーア公爵家の跡取りが私の知るウィリアム様なのか、確証はなかった)
しかし。
ウィリアムは"彼"だった。
私の知る"彼"は、紛れもなくこの世界に生きている。
その事実が頭に染み込むに従って、私の心は歓喜の渦に巻き込まれた。
(嬉しい…嬉しい、嬉しい‼︎)
心が快哉を叫ぶ。
(ウィリアム様は生きている‼︎この世界で確かに生きている‼︎生きている…‼︎)
泣きそうなくらい嬉しくて、私は思わず顔を両手で覆った。
暫く寝付けずごろごろと寝返りをうっていたが、訓練で疲れた身体は休息を欲していたのか、やがて私の意識は闇に沈んでいった。
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