第5話 変わらないコバルトブルー

「蟹江ー」


 水族館の入り口付近で立ちながら本を読んでいると、今では随分と聞き慣れた声が聞こえてきた。


「あ、会長。おはようございます」


 遠くで手を振る会長を見て、私は本と一緒に胸を撫で下ろす。

 矢張り、私の私服みたいにダサくない。よく見る普通の服を普通に着こなしている。私のよくわからない英文が所狭しと書かれたTシャツや、謎の生物の顔だけがプリントされているトレーナーなどと同類なものを会長が着てくるわけがないのだ。

 私の選択は間違ってなかった。モモちゃんと大兄ちゃんに泣きついて良かった。

 でも、一つ気がかりなのは……。

 パーカーが被ってしまったことだ。しかも同じ色。メーカーは違うと思うよが、お互いパーカーを着てきてしまった、それが妙に気恥ずかしい。会長は上に何か羽織ってるから、そこまで気にすることないかな? でもな。色が一緒だし、お揃いだと思われたら……。

 気まずくないか?


「おはよー。蟹江は早いな」


 しかし、会長は私の服装を気にすることなく話しかけてくる。どうも、私の気にし過ぎみたい。

 時計を見れば、九時四十五分だ。


「会長だって早いじゃないですか」

「ま、楽しみだったから。俺は早く来ちゃっただけ」


 楽しみに、してくれてたんだ。

 胸が少し熱くなる。


「蟹江は何時から来てんの?」

「遅れたら悪いと思って、九時過ぎぐらいに来ました」

「早っ! 一時間前じゃん。遅れても俺怒らないし」

「いえ、私が嫌です。読む本もありましたし、待つのも苦じゃないので」


 電車がもし遅れたら、もし迷ったら、もし何か起こったら。そんなことを気にしていたら、一時間前に着いてしまったのだ。

 あと、私も、それは、ちょっと、楽しみだったり。


「予定より早いですが、入りますか?」

「いいよ。あ、でも時間があるなら、ちょっと待ってろ」

「時間はありますけど……?」


 何だろ?


「じゃ、そこで少し待ってろよ!」


 そう言って会長がどこかへ走っていく。

 忘れ物とか? 今更? 考えても仕方がない事に、また本でも読むか、鞄に手を伸ばそうとする。でも、会長が気になって、伸ばし手をぴたりと止めた。そんな気にもならない。

 手持ち無沙汰に何もせずに待っていると、数分もかからずにまた会長が走って私のもとに来る。


「そんなに急いでどこ行ってたんです?」

「自販機っ! ほら、蟹江。待たせたお詫びな」

「え」


 そう言って会長から差し出されたのは、小さなオレンジのペットボトル。


「飲み物なにもなさそうだし、今から結構歩くし」

「え、でも、そんな。私、勝手に待ってただけだし……」

「じゃ、俺も勝手に買ってきたってことで。ほら、行くぞ」

「あ、なら、お金! お金返しますっ!」

「いらねぇー。それなら、もっと違うことで後で返してよ」

「違うこと、ですか?」

「そうそう。なんか決めとくから。ほら、行くぞ」

「絶対に忘れないでくださいよ?」


 スタスタと前を行く会長を追って、私は走り出す。

 会長が出したペアチケットを使って中に入れば、広い空間が飛び込んできた。右の大きな水槽にはイルカ達が戯れるように泳ぎ遊んでいる。


「わぁ……」


 仄暗い空間で、水槽の上だけが淡いコバルトブルーの色を纏って揺らいでいる。


「変わってないな、ここ」

「そうなんですか?」

「うん。蟹江はここの水族館初めて?」

「はい。小学校も遠いので、ここまで遠足に来ることもなかったですし、家族も兄達と歳が離れてるので水族館を嫌がって来たことなかったんです」


 大きなガラスに映る水の色。遥か高く遠い光が踊る。

 巨人呼ばれる私でさえ、簡単に飲み込んでしまうような大きさの水槽。

 私たちの目の前を、じゃれて通り過ぎるイルカ達。

 初めて見る景色に、威圧されているのか、それとも感嘆しているのか。よくわからない感情が胸に籠る。


「そうなんだ」

「このイルカがショーに出るんですかね?」

「どうだろ? 顔覚えとく?」

「え? 会長、見分けつくんですか?」

「え? つかないけど?」


 この人、たまにこういうところがあるんだよな。


「会長、つかないならそういう提案やめて下さいよ」

「蟹江なら出来そうだなって」

「初めましてですもん。出来ませんよ」


 イルカの紹介と書かれたパネルに貼られた写真を見ても、誰が誰だかわからないぐらには初心者だ。


「はじめましてじゃなくても変わらないって。ほら、顔覚えられないならイルカショーの場所行くぞ? それとももう少し見てく?」

「いいんですか?」

「いいよ。今日は一日、蟹江の取材の日のための時間なんだし」


 付き合って、くれるんだ。


「少し、見てたいです。イルカテレビでも観たことあるのにな……」

「実際に目にすると、泳ぐの早いよなー」

「綺麗に泳ぐんですね。私なら、ぶつかりそう」

「はは、蟹江はイルカじゃなくてよかったな」

「会長だってわからないですよ?」


 ムッとした声で言うと、後ろからクスクスと笑う声が聞こえてくる。

 見知らぬ人達が、私が会長と呼ぶのを笑っている言葉が聞こえた。


「……あ、ごめんなさい……」


 急に声をかけるのが恥ずかしくなる。


「ま、学園外で会長と呼ばれるのはちょっと恥ずかしいかもな?」


 そうだ。ここは学園の外なのだ。会長が会長じゃない。そんなことにも、気付かないなんて。


「すみません……」


 恥ずかしい思いをしたのは会長だ。呼んだ私じゃないのに。


「そこまで落ち込まなくてもよくない? 折角楽しかったんだからさ。伊鶴くん、ここは前向きに考えようぜ?」

「前向きに、ですか?」

「そ。蟹江は、俺のことを会長って呼ばない。違う呼び方すればいいじゃん」

「それ、前向きです?」

「ま、そうじゃない? 俺だって、ずっと生徒会長なわけじゃないんだし。俺が生徒会辞めても、蟹江は会長って呼ぶの?」

「いや、呼ばない、かな?」


 どうだろ?

 会長は、会長だったし。それ以外って言われても。


「だろ? なら、今から呼んでもいいじゃん?」

「それは、そうですけど……。先輩、とか?」

「伊鶴ちゃんは俺の名前忘れたわけね。俺はしっかり覚えてるのに、悲しいな」

「え、覚えてますよっ。そんなに忘れっぽくないですからっ。相馬先輩っ! これで良いでしょ?」

「えー。俺は下の名前覚えてんのに?」

「雄也よりも、相馬って苗字の方が少ないので分別つくと思いますけど?」

「賢いこと言うじゃん?」

「恐縮です」


 でも、これの何処が前向きなんだろ?

 呼び方変えただけじゃん。

 変なの。

 私は会話のしじまから、また上を見上げる。

 イルカの白い腹が、上の太陽を通して眩しく感じた。


「そろそろショー間に合わなくなるけど、次の時間のにする?」

「あ、ごめんなさい。行きます」

「今から行っても、良い場所ないかもよ?」

「見えればいいですよ。ショーは写真も撮ります!」


 そう言って私は兄から借りたデジタルカメラを取り出した。


「持ってきたんだ」

「はいっ! 取材ですし、学園内の教室とかと違って、中々これないですからね。これで、ばっちりです」

「成る程。でも、多分なんだけどさ」

「はい?」

「それ、バッテリー入ってないと思うよ?」

「え?」


 ええっ!? 私は慌てて下を向けると。


「あ、空いてるっ」


 バッテリーを入れる場所の蓋が開いていた。

 そういえば、服を選んだり、鞄を借りたりでバタバタとしたぐらいから充電していたバッテリーの記憶がない。


「ふはっ。どこか抜けてるなー、伊鶴ちゃんは」

「そ、そんな笑わなくていいじゃないですかっ」


 でも、どうしよう。カメラがないのは随分な痛手だ。


「そんなに落ち込むなよ。俺がスマホで取ってやるから。良かったな、俺がいて。ほら、行くぞ?」


 貴方のせいなんですけど。

 一人で行くなら、こんな失敗もなかった。服だって選ばなかったし、鞄だってどうでもよかった。

 会長と、いや。相馬先輩と行くから、忘れたのに。

 でも、そんなことは言えないのはわかってる。


「き、今日だけは感謝します……」

「だから、いつも感謝しろって」


 私は相馬先輩に背中を叩かれながら、イルカショーへの階段を駆け上がった。

 

 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「初回だけあって、まだ前空いてましたね」

「そうだな。俺、イルカショー初めて見るかも」

「え? そうなんですか?」

「遠足で来てもさ、ショー見ると時間がかかるじゃん? それよりは歩き回ってたいんだよね」


 思わず、クスッと笑いが自分の口から溢れた。


「何か面白いこと言った? 俺」

「あ、違うんです。相馬先輩も普通の男子みたいだなって思って」


 よくよく考えれば、相馬先輩も二つ上の同じ中学に通う男子だったな。

 大人びているわけではないが、噂も相まってそんな風には思えなかった。


「普通の男子ですけど? 何だと思ってたんだよ?」

「ほら、相馬先輩の噂凄いじゃないですか」

「噂ぁ?」

「どこかの御曹司とか、芸能界から複数スカウト来てるとか、実はモデルやってるとか、気に入らない生徒退学させてるとか、彼女が三人いて救急車呼ばれる騒ぎになったとか」

「えっ!? なにそれ!? 普通の一般家庭ですけど!?」

「友達が少ない私でも他にも知ってるので、もっと沢山噂あると思いますよ」

「誰だよ、流してるやつ。スカウト来てるわけないだろ」

「噂ですからね」

「あ、まさかバスケットボールでドッヂボールやってるってのも?」

「いえ、あれは私のオリジナルです」

「そういうところから噂が広まるんだよ。もう噂増やすなよ?」

「増やしませんよ。私、相馬先輩のこといい人だと知ってますし、優しいことも知ってますから」


 偏見だって、もうない。

 私が笑うと、相馬先輩が顔を伏せる。


「相馬先輩?」


 何の返答もないと、不安になるんだけど。気に触ること言った? それとも、噂増やしてる嫌な奴って思ってる?


「……いや。多分、お前が想像してるみたいに、いい奴でも優しい奴でもないかも、俺」

「……え、まさ噂通り私を退学に……?」

「しないって。そんな権力どこから来るんだよ。生徒会長でも、あの程度だぞ? 違うよ。皆んなに聞かせても、嘘になるかもってこと」


 あ。そうか。


「……性格、矢張り悪いんですか?」

「矢張りって何だ、矢張りって」

「それぐらいの欠点なら許されると思いますよ?」

「結構致命的だろ。お前、俺が性格悪いって思ってたの?」

「ははは。嘘ですよ。そんなわけないじゃないですか」

「嘘くさい」

「相馬先輩よりはマシでは……? あ、イルカショー始まりますよ」


 ステージの端からお姉さんが出てくるのが見える。

 席は最前。端っこだけど申し分ない。


「相馬先輩、沢山写真撮って下さいね?」

「はいはい。でも、性格悪いから失敗したらごめんね?」

「だから、嘘ですってば!」

「わかってるって。俺も嘘だよ。ばっちり撮るって」


 そう言って、相馬先輩は私の方にスマホのカメラを向けてくる。


「私は撮らなくていいんですっ」


 もう! 意地悪して。

 私が怒っていると、お姉さんが中央のステージに立ち、音楽が始まった。お姉さんがマイクを通して私たちに挨拶をしてくれる。

 始まる、イルカ達のショー。

 初めて目の前で飛び交い、愛くるしい姿を見せてるステージははまるで夢のようだった。

 テレビで知っていても、家族旅行でも、学校でも、来たことがない。

 小説の中で恋人達が見守るイルカショー。描写が丁寧なものもあれば、ものの二行で終わってしまうものもある。

 見たことがない私は、テレビで芸能人が映る合間に届けられるイルカショーだけが本物だった。

 だからこそ少し、憧れていたのも本当だ。

 だからこそ、特別な主人公達二人には、見せてあげたかった。

 この景色を。


「凄いですねっ!」

「え? 写真撮ってるよ!?」


 音楽とお姉さんの声と水音でお互い何を言ってるのかわからない。

 ああ、これいいな。ここで告白するのは面白いかもしれない。

 男の子がイルカショーを魅入る主人公を可愛いと思い、感極まって告白するのに主人公には聞こえない。主人公は頓珍漢な言葉を返してしまう。

 そこですれ違いが生まれる。

 男の子は、告白を断られたと思ってしまうのだ。

 ここで、一つの波が起こる。引いて、満ちる。離れて、近づく。思いも、二人の距離も。

 こんな……。


「きゃっ!」

「わっ!」


 その時、突然イルカが跳ねた水飛沫が私たちを襲う。

 目の前まで迫った水に驚いて、思わず顔を庇うように横に倒れてしまった。

 暖かくて少し硬い感触がしがみついた手と頬に広がる。

 私、もしかして。

 ばっとしがみついた相馬先輩の腕から離れるように起き上がると、カメラを持った先輩が私を見て笑う。


「驚いたなっ!」


 少し水が髪にかかった相馬先輩は、楽しそうな笑顔を私に向けてくれていた。


「す、すみません」

「え? 何? 写真の話!?」


 私の謝る声は小さすぎて、相馬先輩には届かない。

 無意識にしがみついてしまったことに謝っているのに。

 いつもとなにも変わらない先輩の笑顔が、少しだけ残念だった。

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