第51話 激昂と狂乱

 熱暴走しそうなミカエルに子守歌を歌い、熱が引いてくることに安堵していたリースは気付かなかった。その背後の海の中から、触手が忍び寄っている事に。


 触手がリースの足を絡め取り、上空へと引き上げられたリースは悲鳴をあげた。ミカエルから離してしまった手を、慌てて伸ばすが惜しくも空を切った。


 悲鳴に気付いたニーナの見えないチカラが、力尽き、眠ったまま落下していくミカエルを見つけ、あわや地面へと激突する寸前で捕まえた。フワリと風に乗せる。


「シスター!」


 ニーナが片腕をミカエルを引き寄せる為に使い、もう一方の腕を触手を無理やり引きちぎろうと振るった。チカラの使い過ぎでリースと触手の間に微かな隙間を生むだけで精一杯だった。


 触手はリースの身体中に巻き付き、#舐__ねぶ__#るように締め付け始めた。


 華奢な身体から、骨が数本折れる音が鳴り響き、リースが悲痛な叫び声をあげた。


「あぁアアぁああぁッ!!」


 クラーケンの頭部が爆発すると、ジャックが全身の皮膚を失い、自らの血と黒墨に塗れ、中から転がり出てきた。


 リースの悲鳴に気がつき、その光景を目の当たりにする。焼けただれた顔から乱杭の牙を剥き出し、獣のように駆け出した。


「やめろォぉぉおおお!」


 なおも触手はリースを締め付け、リースの腕が千切れ落ち、吸盤が頬と首の生皮を剥ぎ取った。


 リースは痛みで声にならない叫び声を上げた。


 ジャックはリースの腕が地面に落ちるのを見た。


 子供たちの頭を撫で、全てを抱きとめる慈愛に満ちた腕が、色を失って地面に当たって弾んだ。その瞬間、ジャックの中でなにかがキレた。怒りに打ち震え、天に向かって吠えた。


 咆哮が大気を揺さぶり、狼男の特性である超再生による熱を持つ肉体は、全身に込められた力で筋肉が張り裂けるほどに膨張した。昂り荒ぶる血潮に銀色の毛並みはみるみる黒く染まっていった。


 ジャックはこれまで以上の速度で飛び上がり、リースを捉えている触手に食らいついて引き裂いた。


 触手が抵抗するように枝分かれして増え、ジャック目掛けてその管を伸ばす。


 ジャックはそのことごとくを爪で引き裂いていく。爪が今までより鋭く、より攻撃的に伸びている。まるで乱立する湾曲した剣だ。


 触手の縛りを失ったリースは地面へと落下を始める。


 ニーナは傍まで来ていたシャオにミカエルを任せ、チカラが届く距離まで全速力で走った。


 アンバーもチカラを解放して走り始める。蹴った地から砂埃が縦に吹き上がる。


 ルディとビリーも走った。


 皆が差し出した手も虚しく、リースは地面へと叩きつけられた。


 ニーナの全身の血が凍りついたように感じ、思わず足が止まった。それは子供たち全員がそう感じた。“死”を意識したのだ。


 ナナの杖から降りたカインも同様で、震えにつかれ、胃がひっくりかえったように感じて思わず胃の内容物を吐いた。


 ただ一人だけマリアは違った。走る速度を変えず、全速力で滑り込むと意識を集中させチカラを解放する。


 リースは濃紺の血を吐き、叩きつけられた背中から出血していた。なにかを探すようにキョロキョロと目だけが動いていた。


「絶対に死なせない! 私は! 諦めない!」


 その言葉に全員が気がついた。


 もうダメかもしれないと諦めていた事に。カインは自身へと怒り、頬を殴りつけた。


 マリアのチカラで、緑色の泡が宙に浮かんでは消えていく。だが、いつもより遅い。チカラが通らない感じがする。どうしてこんなに遅いのかと考え、瞬間的に理解した。


〈もしかして、吸血鬼だから……?〉


「そんな……そんなことって!」


 カインが走り寄って言った。


「諦めるんじゃない! マリアなら出来る!」


「マリアなら出来る!」


 次はニーナが言った。


 続いてルディとビリーが同様に言った。


 アンバーはリースのちぎれた腕を抱えて、元あった位置へと腕を置いた。マリアを見つめ、その小刻みに震えている肩へと手を置いた。


「マリアなら出来る。そう信じてる」


 カインが肩に手を起き、皆がマリアの背に手を合わせて一心に祈った。


 マリアの緑色の光は、皆のチカラの影響を受け、極彩色の光を帯び始めた。


 虹色の泡がふわりと浮かび上がり、弾けると辺りを虹色に照らした。様々な色の絹に撫でられているかのように少しくすぐったい。


「これは……」


「すごい……」


 皆が一様に喉を鳴らしてその光景を見つめた。それはまるでリースのロザリオが瀕死のジャックを癒した時のような輝きだった。


 光がリースを包み、ちぎれていた腕が光に包まれたかと思うと元に戻っていた。閉じられていた目が開かれると、見下ろす子供たちの顔を一人一人見て回った。


 子供たちはそれぞれの泣き顔を自分に向けていて、リースはそのどれもに愛おしさを感じた。全員を抱きしめようとすると轟音が鳴り響いた。


「グルルルオオオ!!!」


 怒りに狂った雄叫びをあげたジャックがグレゴリーへと突進する。放たれる触手に囚われたかと思うと、恐ろしいほどの膂力ですぐさま引きちぎり、猪突猛進と襲いかかる。


 手足は明後日の方向へと曲がり、折れたままの足で走り、折れた腕を邪魔だと言わんばかりに自ら食いちぎって喰らった。身体を触手に貫かれるのも構わず攻撃に転じている。身の危険を一切顧みないその戦いぶりはヤケになり、悲しみと怒りに振り回されているようにも見える。


 黒い毛並みを全て逆立てて、突進してくる狼男にグレゴリーは恐怖を覚えた。震える我が身を呪うように触手を振るった。


 グレゴリーの姿をした太い触手に剣のような爪を食い込ませた。


 すぐさまグレゴリーの身体から黒い霧が噴き出し、その毒をジャックへと見舞った。グレゴリーは勝利を確信するかのように引きつった笑みを浮かべた。


 ジャックはその黒い霧を大きく肺に吸い、勢いよくグレゴリーの顔面に吹きかけると、毒で焼け爛れた体内の皮膚と血がグレゴリーの目を覆う。


 思いも寄らぬ反撃にあったグレゴリーの首にジャックが噛みつき、喉笛を食いちぎった。


 クラーケンの本体は痛みに苦しむように触手をめちゃくちゃにのたうち回り、生にしがみつこうとしている。やがてクラーケンの身体は動かなくなった。生気を失い、本当の死が訪れる。墨をかけたように黒く染まっていった。



 ***



「父さん! シスター・リースは無事だよ!」


 痛々しい身体のジャックに堪らずカインは呼びかけた。


 口の周りをボタボタと滴る黒い血で染め、黒い毛並みの顔をカインへと向けた。敵意を剥き出して喉を鳴らし牙を剥いている。鋭利な爪は引き裂いてやろうと構えている。


「父さん……?」


 ジャックは地を蹴り、カインへと爪を振り下ろした。


 金属音が鳴り響き、カインの肩を爪が切りつけていた。


 すんでのところでビリーの短槍が受け止めていなかったら、カインは真っ二つに切り裂かれていた所だったのだ。


「な、なんで……」


 ジャックは面白がるようにビリーの受け止めている短槍ごと押しつぶそうとしていた。もう片手を添えてさらに力を込めると、ビリーは片膝をついて叫んだ。


「カ、カイン! 早く避けて!」


 呆けていたカインがハッとして飛び退くと、ビリーが短槍に電撃を流した。カインと密着したままでチカラを使えなかったのだ。


「グギャウッ!」


 突然の痺れるような痛みにジャックが飛び退いた。


 思わずマリアが叫ぶ。


「父さん!」


 声のした方に向き直り、次の獲物へと移る。


 黒い毛並みのジャックがギラリと鈍く煌めく爪を翻して襲いかかった。


 マリアは咄嗟に地面に転がる丸い盾を蹴り上げ、左手で構えた。


 ジャックの爪が盾の表面を抉り取り、衝撃で弾き飛ばされたマリアは身体を捻って着地した。


「やめてよ! 父さん!」



 ***



 グレゴリーの死を見届け、街の復興作業を計画していた、駐屯兵団元団長のライオネルは、渋い顔で現団長のジェイムズ・ウィンターの死を確信していた。


 周辺の様子を見させていた兵士が走り込んでくると、異変に気付いたライオネルと冒険者ギルドのエイリーンが走った。


 黒い狼男が子供たちに襲いかかっている。いったい何が起きているのかは分からないが、すべき事は分かる。


 盾を前面に押し出すようにライオネルが黒狼へ突進すると、警戒するように黒い狼男が飛び退いた。


 その飛び退いた先に先回りしていたエイリーンが大斧を振り下ろした。


 重い風きり音がジャックの足と地面を抉りとった。


 黒い狼男は意に介さないように鋭い爪を突き上げた。


 エイリーンは武器を手放して大きく飛び退く。手放さなけれ両腕を失っていた所だ。掠めていた頬の傷がパックリと口を開ける。


 黒い狼男は爪に付着したエイリーンの血を、さも美味しそうに舐めとって飲み込んだ。


 その禍々しい姿に皆が恐怖を覚えた。


 特にグレイス孤児院の子供たちは信じられなかった。黒い狼男となったジャックに襲いかかられたカインとマリアも、未だに何かの間違いだと認められない。ライオネルとエイリーンの攻防をただただ見ているしかなかった。


 攻防は未だ続き、両者譲らない戦いが繰り広げられていた。特にライオネルの熟練した戦いぶりは目を見張るものがあった。


 厚みのある重い盾を巧みに使い、時に牽制に使い、剣で隙を作り上げる。


 エイリーンはそれを熟知しているかのようにライオネルが作る隙を縫って大斧を振るった。


「カ、カイン……どうすればいいの? 私たち……」


 マリアが不安そうに眉根を寄せてカインに聞くと、カインは分からないと首を振った。意志を汲み取るように腹部を抱えたリースが言う。


「元に……元に戻してあげてください」


 リースの傷は治りきっていない。見た目には分かりづらいが、身体の内側にはかなりのダメージが残ったままだ。


「彼は……ジャックは今、私のせいで怒りに呑まれ我を失っています。狼男となって彷徨っていた頃のように希望を失って……。だから、私たち家族が止めないといけない。私たちにしか出来ないのです」


 ひとつ所に寄り添うように集まっていた家族は、意を決してジャックを救う事を選んだ。


 だが、そこでカインの中に疑問が浮かぶ。そう口にした。


「……どうやって?」


 シスター・リースは困ったように見つめ、首のロザリオを外した。この状況では話すしかないと決めたのだ。だが、必要な部分だけでいい。


「以前、ジャックがグレイス孤児院に来てまもない頃に聞いた事があるのです。一人の女性……カインのお母様が身命を賭して自分を元に戻してくれたのだと……」


 シスター・リースはロザリオをカインに託した。


「これで……ジャックの心の臓を突き刺すのです」

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