第38話 変貌
グレゴリーは見ていた。待ちに待った召喚の儀式が成ったのだ。魔法陣の中心にいる少女は疲れ果てたかのようにその場に倒れたが、グレゴリーの目にはすでに見えてはいない。
地下に広がる拷問部屋の中心に位置する魔法陣から、ドロドロとした透明なスライム状の水が溢れ出すように地下に広がっていく。
「おお! ようやく現れたか魔王よ! さあ! 蘇らせてやった礼に永遠の命を与えるのだ!」
グレゴリーはドロドロとした液体を受け入れるかのように両手を広げた。
その液体はグレゴリーではなく、腹を開かれた生贄の子供に手を伸ばすように液体の身体を伸ばし、飲み込むように内に取り込んだ。生贄の子供の身体は徐々に溶け始め、皮膚が無くなり、肉がなくなり、やがて骨になった。
思っていたものと違うと、危険を感じ取ったグレゴリーは慌てて階段を駆け上がる。駐屯兵団団長、ジェイムズと鉢合わせた。
「な、なんだこれは? グレゴリー卿、あなたはいったい……」
グレゴリーは有無を言わさずその腹にナイフを突き立てた。甲冑の隙間へナイフが滑るように臓腑を抉る。
液体は爆発的に増殖し、生贄となった子供たちをも次々と飲み込んでいくと、地下を埋めつくした。
行き場をなくしたかのようにそれは階段を登っていった。スライムの濁流となって地下に広がる。井戸、拷問器具、地下への階段、ジェイムズをも飲み込んで、屋敷へと巡っていった。
***
「な、なんだ?」
ジャックは異変を感じ取った。屋敷全体が揺れている。皆一様に不安そうな顔だ。ナナは階下から迫る、人ならざる大きな気配を感じて叫んだ。
「いけん! ここから離れて!」
杖を操り浮かせ、差し出す手をビリーが握り、ルディとリンクスが杖にしがみついた。杖は重力を無視したかのように浮かび上がりその場からゆっくりと離れていく。
ニーナはチカラを使い、倒れている兵士を浮かび上がらせ自らも宙へと飛びあがる。
ジャックはリースとシャオを抱き込んで逃げようとするが、目の端に映るものに対して舌打ちをした。憎々しげに屋敷の私兵隊長をむんずと掴んだ。
ジャックの毛深い両脚が筋肉で盛り上がり、倍近い大きさに膨らんで地を蹴った。
一足飛びで離れた場所に着地すると隊長を乱雑に放り出し、リースとシャオをそっと下ろした。
ニーナのチカラが気を失っている兵士たちを丘の上へと降ろし、そこへナナの杖が重苦しそうにフワリと降りてきて全員を降ろす。
「すっげぇ! 本当に魔女なのかよ!」
ナナは素直に感動しているルディを見てふふっと笑った。低く唸るように警戒しているジャックと立ち並び、屋敷を覆っているスライム状のものが溢れ、耐えきれなくなった屋敷が押し潰されるのを見ていた。
やがてそれは一つの強大なものへと姿を変え始める。
のたうつものはヌメヌメとした触手へ、屋敷の中の傀儡となっていた兵士たちを飲み込んだものは大きな目玉を形作り、グレゴリーを飲み込んだものはブクブクと膨らんだ頭へと変貌を遂げた。
ジャックの背筋を冷たいものが流れる。
「あれが……」
「そう、クラーケン……かつて実在したモンスター。この街の昔話になり現在まで語り継がれているもの」
ナナは胸元をギュッと震える手で握りしめその先の痛みを感じる。『魔女とクラーケン』と題される絵本を思い出し、自らが受けた仕打ちで胸が痛む。
〈あれと戦い封印したのに、人間に裏切られた。そう、この街の人達に。自分たちと違うからと言うだけの理由で〉
ナナは涙を飲み込むように歯を食いしばり、杖を握りしめる。
横目で心根を見透かすようにしているジャックにはかける言葉が見つからなかった。だが、やるべきことは分かる。
「アレを倒すしかない」
「そんなこと……」
――できるわけが無いとリンクスは言いかけてやめた。
まるでルディと議論しようとしているような気分になったのだ。頑固で向こう見ず。初対面だが、ルディと同じ雰囲気をもつ狼男。
「へへへっ! そう来なくっちゃ!」
〈ほらね。頭が痛いよ、まったく〉
リンクスは頭を抱えるように押さえた。だが、今までそれでなんとかなってきたのも事実。
巨大なクラーケンは自由を謳歌するかのように移動を始めた。のたうつ触手で地面を器用に掴み、ヌメヌメと身体を滑らせて前進する。
身構えていたジャックは、明後日の方向へと向かうクラーケンを見送る。
〈いったいどこへ……違う……獲物を……人間を見つけたんだ。たくさんいる方へ……あの先は、港か?〉
ジャックの後ろで、駆け足と言わんばかりに脚を上下させてビリーは言った。
「ホッホッホ! 追いかけるんスよね?」
「えぇぇっ? また? また化け物のお尻を追いかけるの?」
「なんだよ? 嫌なのか?」
先程からニーナは
「べ、べっつにぃ! 嫌ってわけじゃないわよ! ただ……なんか……気に入らない」
尻すぼみになる言葉でよく聞こえなかったが、吸血鬼のリースと狼男のジャックには聴こえていた。目線を合わせて少し困ったように笑顔を見せあった。
「えっ? なにっ?」
「はっ? なんスか?」
もう一度言ってと言わんばかりにルディとビリーが耳を向けて顔を寄せたものだから、思わずニーナの頬が赤らむ。
「うぅうっ……うるっさーいっっ!!」
急に出された大声で、二人の耳はキーンと耳鳴りが響いた。
「さっさと追いかけるわよっ! バカッ! はいっ! よーいドンッ!」
言い終わらないうちからニーナは駆け出した。
「ぁあっ! ズルいぞ!」
「ちょちょっ! 待ってくださいっスよ!」
リースは呆気にとられているナナとリンクスに向かって言った。
「ごめんなさいね。騒々しくて」
「い、いえ」
「君たちはどうするんだ?」
とジャックは言いながら、瓦礫の中から半壊した扉を引っ張り出して敷くと、リースをお姫様抱っこした。
「きゃっ!」
リースはスカートを押さえて頬を染めた。ジャックは意地悪そうに口角を上げてみせ、板の上へとリースを降ろした。
「もうっ!」
ナナは当然のように言う。
「やります! ウチがやらないといけない理由があるんよ!」
ジャックは頷くとリンクスに視線を移した。
「オレは……あいつらは、フリースタイルのメンバーはもう生贄にされてしまった。でも、オレはあいつらのリーダーなんだ。仇はとってやりたい。だから……戦う!」
「分かった」
ジャックは倒れている兵士のベルトを引き抜き、鞘に収まっている剣をリンクスに手渡した。
「使えるかい?」
リンクスは力強く頷いて見せた。
続いてジャックは屋敷の兵士に目を向けて吐き捨てるように言った。
「お前はここで野垂れ死んでろ」
「そ、そんな……」
ジャックはリースとシャオの乗った板を頭上に持ち上げて飛び上がり、瓦礫に飛び乗ると次々と飛び移っていった。その度にリースは板にしがみつき小さく悲鳴をあげる。慣れた様子のシャオはむしろ楽しんでいるようにも見える。
ナナは杖に跨るとリンクスに手を伸ばしたが、リンクスはその手から視線を外して氷のように冷たい目で隊長を見下ろした。手の中の剣が重みを増すように感じる。
私兵隊長は剣とリンクスを交互に見て、縛られたまま後ずさった。
「ま、待ってくれ。命令されただけなんだ。呪詛をかけて殺された俺たちはゾンビ共のように命令には逆らえないんだ」
リンクスは歩み寄ると隊長の肩に手をかけた。抜き放った左手の剣が鈍く煌めいた。
隊長が目を瞑り、そしてどこを刺されたかと神経を身体中に回すが、なにも感じない。
目を見開いた隊長は力なく手元に垂れる縄を見つめ、自由になった手を見てリンクスを見上げた。
リンクスが隊長の顔面に拳を叩き込む。私兵隊長の鼻っ柱が鈍い音を立てた。
後ろに倒れ込んだ隊長は鼻を押さえた。指の隙間から鼻血が垂れているのが見て取れる。
リンクスはナナが再び差し出した手をとった。
「いいの?」
「殺す価値もないよ。それより急ごう」
ナナはニッと笑って応じた。
「ええ」
杖は二人を乗せるとフワリと浮かび、舞い上がった杖は風を受けて飛ぶ鳥のように、暗い大空へと羽ばたいていった。
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