第29話 腹の虫の居所
ジャックは建物の屋根の上に潜み、一〇〇メートルは先の跳ね橋をまじまじと見つめる。
歩いて入ってきた時とは違って引き上げられた跳ね橋は、今や高くそびえ立つ壁そのものとなっていた。
下の跳ね橋の内側には少なくとも兵士が一〇人はいる。跳ね橋を降ろしニーナたちを中へと避難させるにはまずアレをなんとかしなければならない。
ジャックは胸をわし掴むように意識を集中させる。心臓から脚へと急激に行き渡らせていく。血は筋肉を爆発的に強化する。屋根に食い込ませた爪先が屋根を蹴った。跳ね橋へと繋がっている外壁へと飛び移った。……が、一歩半足りない。落下しながらもガリガリと外壁を手足の爪をひっかけ何とか登りきった。
〈うっはぁっ! ギリギリ! あっぶねぇ!〉
安堵のため息をこぼしたジャックは、外壁の上から顔を覗かせて外を伺った。
外壁をぐるりと囲うように深い堀が弛まぬ水を貯めていた。
外にいるニーナたちをどこか侵入させられる所はないかと眺めていたジャックは、街道のそばにある老木を背に戦っているニーナたちを見つけた。
ニーナが杭の雨を続々と増え続けるゴブリンに向けて放っていた。対集団戦に置いてニーナのチカラは無類の強さを誇る。百人隊ぐらいなら一人で簡単にいなせる程だ。
ジャックはその相手を見て感嘆の声を上げた。“魔大戦記”を読み、自分で絵本に書いた絵と寸分違わぬ出来に人知れず充足感を得る。
〈今度はゴブリンか。小鬼……たしか、オスしか産まれず女を攫い、繁殖に使ってから食う……だったな。まるでモンスターの見本市だ。こいつらも大戦の後に絶滅させられたはずだが……〉
ふと気づく。ニーナの後ろにいるリースの様子がおかしい。腹部を押さえて苦しんでいるように見える。シャオがリースを庇うように泣いている。
〈まさか!〉
ジャックは外壁の上から外へと向かって飛び降りた。もう戻れないだろう。飛ぶにしては高すぎる。だが今はそんなことはどうでもいい。
「リイィィスッ!」
ジャックは地面を抉るように着地して駆けつけた。
「リースッ! 無事か! おい!」
ジャックは心配のあまりリースを揺さぶった。
「やめっ! やめて! 父さん! 落ち着いて下さい!」
気が動転している。シャオが何か言っているがなにも聞こえない。ゴブリンに何かされたんじゃないかと想像する。破れた服。ジャックの頭からは先程の“魔大戦記”の文字列が離れない。――繁殖に使ってから食う――最悪な想像が現実に起きてしまったんじゃないかと思っていた。リースがこいつらゴブリン共に犯されてしまったのではないかと。
リースの腹部から流れ出る赤黒い血が流れ出るのを、シャオが両手で押さえていた。今はその手をジャックの腕にかけしがみついている。
「父さん! やめてください!」
呼吸も荒く、煮えたぎる臓腑に突き動かされるようにジャックはゴブリンの群れを睨みつけた。今にも怒りに任せて飛びかかろうと腰をあげようとしていた。乱杭の牙から滾る血潮に蒸気が漏れ出す。ザワザワと全身の毛が逆立ち、毛が黒く染まり始めていた。
その怒りでむき出している牙の見える頬を、シャオは力いっぱい叩いた。
あらぬ方向からの痛みに一瞬、怒りを忘れた。
「落ち着きなさい!!」
ジャックは気弱で大人しいシャオの怒りに、我を忘れたかのように呆然と見つめる。
血に塗れた震える手を口元に当てて我に返ったように言った。
「と、父さん、ごめんなさい。わたし……こんなことしてる場合じゃないんです! シスター・リースが刺されちゃって……血が止まらないんです! マリアはどこです? 治してもらわないと、こんなに血が……」
ジャックはリースの腹を押さえているシャオの手をそっと退かせると、傷の具合を見た。リースの絹のような手触りの背では不似合いな大きな目玉がギョロリと見返している。続いて化粧と悪い顔色とが相まった真っ白な額に手を当てた。
〈冷たい。そうだよな。吸血鬼になってしまったんだよな。……それなら、回復方法は一つしかないじゃないか〉
ジャックはリースの背中に手を回し、そのまま自分に引き寄せた。
「リース、俺の血を吸うんだ」
「……だ、だめ……そんなこと……出来ません」
「やるんだ。リース」
深い優しさを持つリースが最も嫌がりそうな事を歯噛みしつつ言った。
「このまま死んだら、この子たちは自分たちを責め続けるぞ。そんな重いものを背負わせるのか? リース」
***
ゴブリンの集団を薙ぎ払い続けていたニーナの指先が、意識可から外れて撃ち漏らす。
〈しまっ……〉
シャオへと襲いかかるゴブリンを、振り返りもせずにジャックの手が頭を鷲掴む。ジャックが力を込めていくと、ゴブリンの頭蓋にヒビが入り緑色の血が溢れ出す。更に力を込めると破裂した。シャオにゴブリンの血が降り注ぐ。
その様子を見て、絶えず襲いかかって来ていたゴブリン集団の数人がたたらを踏んで狼狽えた。本能的に死を、恐怖をイメージしたのだ。
シャオは緑色の体液を顔から拭い取ると、ジャックの持ってきた荷物から猟銃を手に取った。荷物から転がりでている弾丸を慣れた手つきで込め始める。
リースはジャックの金色の瞳を見つめながら思い悩んだ。優しさと思いやりのと葛藤がリースの額に汗を浮かべ、それらが夜空の星々のように滑り落ちる。
リースは躊躇いがちにジャックの首元に香る血の匂いを嗅いだ。途端に首筋の赤黒い血管が浮き出て脈動を始める。
本能に誘われるかのように八重歯が伸び、尖った牙となって伸び始める。
リースの桃色の瞳に赤黒く微細な血管を浮かび上がらせた。
呼吸が荒くなり、抑えきれない衝動に舌がジャックの首に押し付けられ、続けて牙がプツッと肌にくい込んでいく。流れ込む血の味に脳天まで突き抜けるような快楽を感じ、喜びに震える身体をよじって身悶えた。
「いいんだ、リース。それでいいんだ」
ジャックは子供を寝かしつけるように優しい声音を作り、背中をポンポンと優しく一定のリズムで叩いた。
リースは喉を通る暖かな血に快楽を覚えながら涙を流した。
ジャックはリースの背にある目を見つめ返していた。
恐らくは貫かれている。腹の傷が塞がるにつれ、目玉も満足したかのように閉じていく。子供たちを守ろうと身を盾に差し出したのだろう。
リースの背中を叩く力を強くし、リズムを早く打った。
「さあ、もういいぞ。リース、よく我慢したな」
リースはジャックの肩から牙を抜くと、ジャックを見つめて涙ながらに謝った。
「ご、ごめんなさい。私……こんな……こんなこと……」
「ハハハッ。なんてことないさ。いつもの傷に比べたら安いもんだろ?」
ジャックは言い、リースの頬を伝う涙を拭ってやった。
「シャオ、リースを頼むぞ」
「はいっ! 父さん!」
シャオは猟銃に手を這わせて両目を瞑った。そのこめかみにチカラの影響で血管が浮き出る。
指先にピンク色の光を灯らせチカラで相手を、そして世界を見透かす。
瞳を開くと、ピンク色の光が灯る瞳孔が、弱視の目を飛び越え、脳内に鮮明な世界を映しだした。ゴブリンの肉体を透視し、血流すら#見える__・__#。
シャオは猟銃を抱え込むようにその場にしゃがみ、銃口を向けた。ニーナの背後に潜みながら少しづつ前進していた、ずる賢いゴブリンの二体の頭部を矢継ぎ早に撃ち抜いた。
「ニーナ、ほらっ!」
ニーナに向かってジャックはリンゴを放った。
「わぁーい!」
ニーナはその赤い果実を目にすると、戦闘態勢を解いて無邪気に目を輝かせた。頬を染めながら両手で大事そうに受け取ると、ヨダレを垂らしながら頬にくっつけた。まるでネコにマタタビである。
「ニーナ、シャオともう少し頑張れるか?」
「ムグムグッ……うふふん。あたししゃーわせニャン」
「ニーナ? ちゃんと聞きなさい」
「ムグムグッ……ん? ……ンンッ! うん! 父さんはどこ行くの?」
「何かが起きてる。あの歪みからはどうも奇妙なものを感じるんだ。その匂いを追ってみるよ。そうじゃないと多分、いつまでも湧き出るんじゃないかと思うんだ」
「ふーん。それでいつまで経っても出てくるわけね、こいつら」
「ああ、そうだ。……たぶんな」
ジャックはほんの少し不安になって多分と付け加える。
「いいわよ! その代わり、リンゴもう一個!」
ニーナはその小さな手を差し出し、鳶色の目を星々のように輝かせて見つめた。
そう言うだろうと予想済みのジャックは、弾丸がたっぷり入ったリュックサックのそばにしゃがんでリンゴを取り出した。
それがひとりでに手を離れてフワフワと宙を舞うと、ニーナがても使わずに食らいつく。
「んふふふふふふふふ」
ニーナは奇妙な興奮をしながら笑い始めた。
「シ、シャオ。ニーナとリースを頼んだぞ」
「あはは……はい。父さん」
ジャックは満足気に頷くと跳ね橋の方へと向き直った。
鼻をひくつかせて集中する。
匂いは……ん? これはもしかして……おいおい、冗談だろ? 街の中?
外からだと思っていた匂いの元が、実は街中の方から漂う深い匂いだと気が付いたのだ。冷静さをかいた為に、今の今まで気がつきすらしなかった。
ジャックは外壁に飛びつき、爪を食い込ませて登ろうとしたが、ズルズルと一番下まで下がっていく。もう一度。今度も同様にズルズルと滑り降りてくる。
「えぇい……まじかよ」
「どうしたんです?」
「あの跳ね橋……飛び越えれないや」
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