6
「山田さんおはようございます。隣、いいですか?」
バスの中で石井さんに声をかけられた。マホガニー色の長い巻き髪は今日も綺麗に整えられている。長いマスカラと瞳を大きく見せるコンタクトレンズが視界に入った。夏らしい、目の覚めるような匂いがする。この香水、どこかで嗅いだかも。
「化粧とかおかしいですか?」
彼女は手鏡を出して顔を確認した。
「いや、なにも。石井さんに声が似てる人がいて、この前会ったとき、その人も長いマスカラをしていたな、ってちょっとね」
石井さんの目が一瞬だけ丸くなって、すっと流れたような気がした。
「そうなんですね。そういえば金曜日、お休みだったみたいですけど、体調は大丈夫なんですか」
「おかげさまで。チーフになんか言われなかった?」
「チーフ? ああ、エンドウさんですね。実はエンドウさんも金曜日お休みだったんです」
石井さんは明確に笑った。おそらく、ぼくがどれだけチーフに気を遣っているか気づいているだろう。
「なんだ、そうだったんだ」
休んで損をしたかもしれない。
「あの、実はヤマダさんに聞きたいことがあって」
並んで座っているから、石井さんの腰がふ、と少しだけ縮こまるようになったのがわかった。何か、とんでもないことを聞くのだろうか。
「なに?」
「先々週の日曜日、実はある場所でヤマダさんをお見かけしたような気がするのです」
黒く大きな瞳の先に、間抜けなぼくの顔が写っていた。ぼくはそのとき、記憶の端に巻き髪でベレー帽の女の子を思い出していた。たしか、アニメのキャラクターのコスプレをしているひとだった。石井さんに似ていたかもしれないが、顔を思い出せなかった。
いや、まさか、違うだろう、いくらなんでも。
東京ビッグサイトでのことだ。
先々週――八月十二日は、コミケット、通称夏コミという日本最大の同人誌即売会が開かれていた。アニメやマンガ、ゲームを愛する人々が、その愛情表現をするために集まる場、という風に受け取られがちであるが意外とそういうわけでもなくて、ぼくのように文芸をたしなんでいたり、自主制作のグラビアを売る地下アイドルがいたり、そういった表現活動をしている人間にとっての楽園のような世界だ。という風に勧められたひとから聞いたし、ぼくも実際そう思った。冷房は全く利いてないどころか熱気で熱射病になりそうだったけれど、それでも行ってよかったとこころから思う。
しかし、コミケットに行く人間は互いがそれであるということをあまり公にしたがらない。それもそのはずで、文化的に後ろ暗いことをするという印象が根強いからであって、だからこそ「同志」には最大限の配慮をすべき、なんてコンセンサスができてしまっていたし、実際ぼくもそれを会社の人間に言う義理はないと感じている。
石井さんは、自分がビッグサイトでぼくを見たと思っているか、もしくはぼくがそういう人間なのだろうと思っているのかのどちらかだろう。
「覚えていないな。出かけたとは思うけど」
「そうですか」
話はそこで終わった。石井さんはうつむいてしまった。誤解されないように説明するほど時間も親密さもなかったのだから、仕方がない。モスグリーンのスカートの上に置かれた白く細い指の先は春の桜のような薄いピンクで、思ったより地味な色のマニキュアだなと思った。
バスを降りて、先を急ぐ石井さんについていくことができなかった。
最悪だ。
チーフの機嫌である。降水確率三百パーセント。つまり、ぼくの予想では三回くらい泣きながら怒り狂うはずだ。ぎらりと、圧の強い二重まぶたがぴくぴくと痙攣しているのがその証拠である。目もかなり充血している。
ここまでになってしまうと下手にさわらないほうがいい。ほっといて、まず一回だれかに地雷を踏ませてからなだめた方が合理的だ。そのだれかはかわいそうだけれど、たぶん石井さんか、係長だろう。
昼休みまでは、そう思っていた。
珍しくチーフは午前中、不機嫌でひとこともしゃべらなかったものの、だれにも怒鳴り散らさなかった。
妙だな。
と思っていたら、
「ちょっと」
とチーフに肩をつかまれて給湯室に連行された。どうやら地雷を踏んだのはぼくだったらしい。やってしまった。
「正直に言って。あんた、あたしに黙って何してるの?」
腕を組むチーフは意外と背が高い。ぼくと三センチくらいしか目線の差がない。セミロングの髪先は使い古しの歯ブラシのように開いていた。さわやかな夏の香水の匂いがした。これ、どこで嗅いだんだろう。
二重まぶたに囲まれた瞳は吸い込まれるように黒くて、ぼくはのんきにも綺麗だなと思った。黙っていれば綺麗だし、黙っていなくてもわりと綺麗だと思う。だからぼくは余計にチーフが怖いのだ。
「何のことを言ってます?」
正直に答えた。どうせ踏み抜いたならエネルギーをここで発散してもらって欲しいとも思った。
予想通り、チーフの目から涙がぼろぼろこぼれ落ちてきた。彼女は怒る前に泣いてしまうのだ。かわいそうなチーフ。ただ怒ることもできないなんて。
「あんたあの女とつき合ってるんでしょ!」
そう言ってスマホの画像を見せた。
意外な光景だった。
そこには喫茶店で談笑するぼくとコハクさんが写っていた。
「いや、別につき合ってないですよ。それにその人、エンドウさんとどんな関係があるんですか?」
「は?」
コハクさんとチーフに直接の面識があるようには思えないし、少なくともぼくに何かを言う筋合いはないんじゃないか。さすがのぼくも少しずついらいらしてきた。彼女気取りなのはチーフのほうじゃないか。
「え、あんたしらばっくれるの? ここで?」
チーフは信じられない、という目をした。
「これどう見ても、あんたの隣で仕事してる女でしょうが! なんでそんなに白々しくできるの! 信じらんない!」
ぼくの隣。
もちろん、女性はチーフと石井さんしかいない。
石井さんがコハクさんだっていうのか。そんなばかな。
「え、ねえ、ほんとに知らないの?」
「いや、そうなんですか? うそでしょ?」
「うそも何も、そうにしか見えないでしょ。この手とか」
スマホを指でひろげて、コハクさんの手が写った。桜色のマニキュアまでしっかりとらえている。
そういえば、今日の石井さんの手も桜色だったことを思い出した。
「え、ほんとに気がついてなかったの?」
「いや、はい」
正直、まだ信じていなかった。
だって、全然違う。コハクさんは黒髪のボブで図書委員長のような優等生を絵に描いたような雰囲気でだから小説や万年筆のはなしもできた。けれど石井さんはマホガニー色の髪を毎度丁寧に巻いているしマスカラやアイラインがしっかりしている。カラーのコンタクトだって入れている。ひとむかしまえのことばでいえば、ギャルという感じがした。ぼくとは遠い存在のようでどちらかといえば怖い。
「なんか、ごめん。ごめんね。勘違いだった……のかな」
チーフは、ぼくに知らせてはいけないことを知らせてしまったと思ったようで、悲しい顔をしている。その妙な気遣いが余計にいらいらした。
そのいらいらが、ぼくの領域をゆっくりと焦がしていたことに気がついた時には遅かったようだ。
「まあ、どうでもいいんですけど。というか、なんでエンドウさんがぼくのプライベートに干渉するんですか?」
チーフの顔に怯えが浮かんだ。
あ、これはだめだ。
でも、もうどうしようもない。
「い、いや、その」
「おれはあんたの彼氏じゃねえんだよ!」
声が大きくなった。きっと部署にも丸聞こえだろう。知ったこっちゃない。チーフの余計なお世話のせいなのだから。
「毎日毎日顔は近いし変に媚びやがって! あんたの彼氏でもないし、部下でもねえんだこっちは! なんでもない人間の顔色をうかがうこっちの身にもなってくれよ!」
「ご、ごめん、なさい」
「あんたが女だからこれで済んでるんだよ! おれが女で、あんたがおっさんだったら地獄の果てまで追いかけて首吊るまでセクハラ野郎だって言いふらし続けられるのに! こんな不幸があるか!」
そうだ、ぼくは常に不幸だった。少なくとも自分ではそう思い続けていたし、思い続けられなければとうてい生きられなかった。
「おれはいつまで不幸になりつづけなきゃいけないんだよ! なあ」
チーフはすすり泣いている。知るか。責任をとってくれ。
「まあまあ、ちょっとおふたりさんそこまでにして」
いつの間にか課長がいたことに気づかなかった。ぐらり、と身体が揺れた。
「おう、しっかりしろ!」
すっと係長がぼくを抱きかかえた。煙草のにおいがする。
領域が薄く、遠くなる。
みんながとおい。
ぼくは、どこだ。
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