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 オカリナに罪はない。ほんとうに罪があるのだとしたら、それはぼく自身かストラテラかのどちらかだろう。ひとつぶ飲んだ。なにも変わらないような気がしていた。領域が定まってしまえば外を憎み続けてしまう。そんなのはもうごめんだった。他人の領域を侵害していくのはもういやだった。それを理由に社会から介入されるのはもっといやだった。頼むよ。頼むからじっとしていてくれ。

 もうひとつぶ飲むと世界が加速して社会がぼくと一体化してしまう。それはそれで今度はぼくがいる意味を見いだせなくなってしまって結局怖くなって減らしてくれと言ったのだった。社会の役にたちたいと思いながらぼくは、中途半端になにもできないうえにいざ一体化しようとするとそれも怖くなってしまう臆病さをずっと大事そうに引きずってきてしまったのだった。なんで生まれてきてしまったのだろうな。そう思う一方で、この状態でチーフに対峙することは不可能だと冷静に察して係長に電話をかけた。

「おう。わかった。責任もって俺がやっとくから、お前は休んでろ。昨日は本当に申し訳なかった」

 それとこれとは関係ないと言うべきか迷ってやめた。全く関係ないというのもうそになってしまうし、かといってそれらが全部係長に伝わるかといえばきっとそんなはずはないわけで、だからつまり伝えること自体をあきらめた。社会に必要とされないときに必要とされようとするのは、それ自体が社会に負荷をかけてしまっている。だからこういうときは誰がなんと言おうと休むしかない。また前の職場みたいなことになってしまうのだから。ぼくはしばらく考えるのをやめてゆっくり休むことにした。ベッドにねっころがっていると、夏なのに空気は冷え冷えとしていて気持ちよかった。

 この会社に入る前は二年ほどニートをしていて、その前は千歳県庁で働いていた。縁もゆかりもない社会に貢献するには公務員くらいしかないというのと、それ以外のところには採用してもらえなかったからというふたつの理由は、たぶんほんとうはどちらも理由にならない。単純に毎月給料がもらえて、定年までそれが続くことがほぼ確定的な職につくのが一番楽だろう、というふうに考えていたような気がする。それだって、もう定かではない。

 中学から大学までずっと文芸部だった。ぼくの中で小説を書くことは息をするのと同じくらい、意識しないけれども大切なルーティンになっていたし、いつかは小説家になって社会にメスを入れていきたいと思うようになっていた。高校まではライトノベルばかり読んでいたのでその方面ばかり書いていたけれど、大学に入り始めて、好きだったミステリやSFの分野を離れて純文学やノンフィクション風の社会派小説を書くようになった。同期や先輩はもとより後輩からも馬鹿にされた。左翼になったのだと思われたのだろう。このご時世、たしかに一般的な価値観で言えば左翼だの右翼だのというのはあまりかっこいいことではないし、まして右翼がやや優勢ぎみということになっている今、わざわざ左翼をやろうというのは逆張りにでも見えたのかもしれない。ぼくが他人の小説をさんざん馬鹿にしていたから、その返す刀だった可能性もある。けれど、今でもぼくは、今まで通ってきたすべての文芸サークルの中で一番小説がうまい人間だったと思っている。しかしそれは、裏を返せば自分よりうまい人間を自分のテリトリーに引き込めなかったということだったのだ。それに気がついたのは、県庁をクビになる少し前くらいだった。

 ぼくは県庁をクビになった。依願退職という名目で。

 西日が暑くて起きあがった。冷房をつけて、パソコンをスリープから起こした。「第三文藝新人賞 第6回受賞作 『におうのは塩素と鉄だけ』」とかかれている電子書籍ビューワーのウィンドウを閉じた。書き手は二十四歳の女性だった。ぼくより年下で驚いたから読んでみたけれど、結局セックスをうまいこと社会規範とか家庭とか固定観念とかそういうじめじめしたものを意図的に交錯させました、みたいな世界観が並んでいて、そこにメイド喫茶で働くアイドル目指した女、という絶妙に手垢がついた人物によって描き出されるわかりやすい孤独と困窮、というような小説で、なんだか「女性ならではの」ということばで片付けられてしまうようなありきたりさが鼻についた。男だらけの世界で生きてきたぼくはそのあたりがどうにも気持ち悪くて、この作品が新人賞でぼくの書いた「夏の虫」が二次選考すら突破できていないのがほんとうに、自分でも信じられないくらい憤った。ぼくの小説はこんなわかりやすくてどうしようもない、「王様のブランチ」を見ている人間に「エモい」「泣ける」「しんどみがすごい」とかなんとか言われて消費されてそうな小説にすら勝てないのか、社会はどうしてそんなものばかり必要とするのだろうか、と本気で考えてしまい頭がおかしくなりそうだった。

 着ていたワイシャツからICレコーダーがすべり落ちた。ぼくはレコーダーをパソコンにつないでファイルを保存した。きっと聞くことはない気がする。けれど、なぜか会社の中のことをどこかに保存しておきたくてしょうがなかった。

 ふと、魔が差した。

 そういえば、この前のやりとりもこのレコーダーに保存されているはずだ。

『いつもこの時間に来てますね』

 コハクさんの声はやはり、どこか別の場所で聞いたことがあるような気がした。けれど、よく思い出せない。見た目にそぐわない、すこし落ち着いた女性の声。

『あなたもそうですよね』

 ぼくは控えめにほほえんでそう言ったはずだ。でもこうして自分で聞くとはっきり言って気持ち悪い。どこか、ねばねばとしていて気持ちが悪いのだ。

『え、ええ、まあ』

 当然コハクさんは戸惑うだろう。だって気持ち悪いのだから。

 つか、つか、と足音がした。このヒールの音もどこかで聞いたことがあったような気がした。気がしただけでほんとうは初めて聞くのかもしれないし、やっぱりそんなことを考える自分が気持ち悪くてしょうがなかった。

『その万年筆、素敵ですね』

 コハクさんは物珍しそうにバルカロールを見つめていた。さっきの落ち着いた声色からほんの少しだけうわずっているように聞こえる。チーフがホームパーティのときに演奏してた「熱情」のラの音みたいだ。なんだか盗聴しているみたいで、というか現在進行形で盗聴していて気持ち悪い。

『コハクさんも万年筆を遣うんですか?』

 気持ち悪い声だ。

『はい、最近買いまして。カクノを』

 少し緊張したような声。ああ、なんで気が付かなかったんだろう。

『パイロットのカクノですか』

 ぼくはどうやら少し得意になっているみたいだ。気持ち悪い。

 全然新しいコミュニケーションではない。

『インクはなにを使ってます?』

『ふつうのカートリッジです。黒の』

 ぼくは静かに驚いた。コハクさんはなんとかして会話を続けようとしている。そんなに頑張らなくたっていいのに。ぼくはそれに甘えていたのだ。

『いろんな色のインクがあるなあと思って、先に万年筆だけ買ったんですけど、カートリッジがついてきたのがもったいなくて。それに、瓶詰めされているインクはいろいろあって、目移りしちゃって買えないんです』

 コハクさんのやわらかな目元と指先の桜色のマニキュアを感じた。心底気持ち悪い。ぼくはやっぱり人間じゃなくてなにか、こう、別の気持ち悪いものなのだろうと思う。吐き気がしてきたけれど、聞くのをやめられなかった。

『書いてみます?』

 得意げに言っている。こんなやつの言葉なんか聞かなくていい。

『いいんですか?』

 でも、コハクさんの声は明らかに喜んでいた。もう、演技かどうかはぼくにはわからない。演技かもしれない。いやたぶん演技だろう。

『万年筆を持ってる人なんて、久しぶりにみたから』

 一方でぼくは完全になにかしらの演技をしていた。もっとも、ぼくはひとりでいても独演をしているから、別にこの時でなくても演技をしている。だからこうして過去の録音を聞いたりするとその内容にかかわらず気持ち悪い。

『あれ、ノート、いくつもあるんですね』

『用途によって使い分けてますから。これはなんでも書く用。だから好きに書いちゃっていいですよ』

 あの時気づかなかったけれど、コハクさんはちいさくため息をついていた。やっぱり緊張している。

『じゃあ失礼して』

 するする、と万年筆が紙の上を走る音がした。このレコーダーがこんなに音質がいいなんて気が付かなかった。

『これ、不思議なインクですね。書いていくと色が変わる』

『よく気づきましたね。これはそういうインクなんです』

『すごいペンですね。字がにじまないなんて』

 嬉しそうだ。本当に嬉しそうに聞こえる。涙が出てきた。

『それはペンのせいではなくて、インクですね。この紙はふつうの藁半紙と同じような再生紙ですから、ふつうの、とくにパイロットのインクだとにじんで、文字に毛が生えたみたいになりますよ』

『へえ、そうなんですか。勉強になります』

 余計なことを言ってしまっている。どうしようもないやつだな。

『ありがとうございました』

 吐き気がひどい。でも聞いてしまう。

『あら、もうこんな時間』

『今日はありがとうございました。また、お待ちしていますね』

『ええ、まあ』

『また来ますね』

 ようやく身体が動いて、とっさにICレコーダーを放り投げた。

 どうしてこんなことをしてしまったのだろう。こんな人間の書いた小説なんか誰が読むんだろう。どうしようもないものを読まされるくらいなら確かに型にはまった薄っぺらい小説のほうがきっとずっとはるかにマシだ。だから審査員は「夏の虫」をおろした。ぼくが気持ち悪いからだ。どうせもてあそばれてすりつぶされて笑われてそれでおしまい。売られるどころか、値段をつける価値すらなかった。それだけだったんだ。

 ジップロックをあけてもうひとつぶ薬を飲んだ。なにしろ気持ち悪いしぼくはぼくを許すことが出来なかった。耐えきれなかった。ほんとうはさらにもうひとつぶ飲もうかと思ったけれど後戻りができなさそうで怖くてやめた。ぼくが社会になってしまったら日本は虐殺にまみれてしまう。そんなのはいやだった。ぼくはぼくだけを殺したいのだ。コハクさんに死んでほしいわけではないしチーフだって嫌いだけど死んでほしいわけではない。ぼくはほんとうはぼくだけを憎んで生きていたい。ただそれだけなのにそれがとても怖くて気持ち悪くて外に出ないと気が狂いそうだった。

「ジュエル」に行こう。行かないといけない。

 なぜだか、これは克服しなければならないような気がした。

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