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 目覚ましの音を変えた方がいいのかもしれないと思いながら、今日も有名な奏者がかなでるオカリナに起こされる。好きでも嫌いでもない音でないと、目覚まし以外で音楽を聴いたときにこのとてつもなくいやな感じをフラッシュバックしてしまう。だから普段これよりも聴くことがなくて、明確に目覚ましだとわかるようなものが見つからなければ、きっと本当に死ぬまでこのオカリナを毎朝聞き続けるのだろうと思う。別にそれでもそこまでは悪くない。

 コーヒーを飲みながら昨日のダブルリングノートに手を伸ばした。裏をめくると、たしかにコハクさんの文字はあった。無機質で角ばっていて、優等生みたいな字だと思った。きっとぼくみたいに文字でとやかく言われたことがないような、そういうひとの字だ。ピンク色のマニキュアは桜貝みたいだと思ったけれど、桜貝の画像なんか見たことがない。気になってスマホで画像検索してみた。もうちょっと濃かったような気もするし、これくらいだったような気もしなくもない。それに「桜貝みたいな色の爪」というのは少し使えるような気がした。どことなく官能的のような気もするし。

 ぼくはノートをめくった。「図書館の踊り子」と書いた。これは仮のタイトルだ。あまりおもしろくないので、きっとほんとうのタイトルが決まるまでに様々な変遷をたどるような気がした。その下に「ヒイラギ・コハク」と書いた。直接的過ぎやしないだろうか。でも、どうせ読んでいないだろうし、大胆にいくのもいいかもしれない。高校三年生、十七歳。コハクさんの学生時代に思いを馳せる。黒髪のボブで、やたら大きな眼鏡をしているのを女友達にからかわれている。いや、女友達じゃないかもしれない。彼氏か、もしくは煙草を吸っている不良か。バルカロールが走っていく。するするとレジストラーズインクは酸化してノートに「図書館の踊り子」の設計図を固着させていく。

 するする、するする。

 一週間ぶりに自慰したときの射精みたいに、勢いが制御できない。

 いや、待て。いいから待て。書くのをいったんやめろ。よく考えろ。偽物はどこだ。それはほんものか。ちがうだろ。偽物を探せ。お前の書いているそれは偽物じゃないのか。なあ、そうだろ。それは偽物だろうが。なあ。おい、なんとかいえよ。

 領域から声がする。

 気づいた。ぼくはまだ今日の薬を飲んでいない。

 バルカロールが一気にしぼんだように見えた。文字はすでに黒くなりかけていたけれど、ぼくにはまだ青く見えた。

 いやだ。いやだいやだ。お前となんかはなしをしたくない。

 ジップロックから青色のカプセルを取り出す。ひとつぶでいい。ひとつぶさえあればいいのだ。先週からひとつぶでやってみようと主治医に言われた。身体はだいぶ軽くなったけれどときどきこういうことが起こる。領域が主張を続けて声を張り上げている。塩素のにおいで浄水器を使うのを忘れたことに気がついたがどうでもよかった。まだだ。まだいる。どうでもいいのだ。お前なんかどうでもいい。そしてだいたいのことはどうでもいい。ぼくがおもうほど世間は、世の中は、君は、あのひとは気にしていないし、むしろぼくが気にしていないことをもう少し気にしなくてはいけなかったのだ。だからお願いだ黙ってくれ。黙れ。黙れよ。

 再びぼくの領域がぼやけだしたような気がしたので、バルカロールとノートをしまって会社に出かけた。

 雨が降り始めると夏も終わりに近づいていることを感じる。絞る前の雑巾みたいな色をした雲が低いところを重そうに飛んでいる。送迎バスでぼんやりと空を眺めて、乗らないで喫茶店が開くまで待っていればよかったかもしれない、と一瞬だけ思う。次の瞬間には食堂のメニューがカレイの煮付けだったことを思い出して、妙に甘い飾り包丁のついたカレイの切り身がぼくの領域を自由に泳ぎ始めた。太陽が目覚めたらあの船で行こう寄り添って、雪解けを泳ぐくじらみたいな。何の曲だったか忘れてしまった。あずさ2号ではないことは確かだ。そういえば、石井さんにこの送迎バスがあることを伝えていなかった。いや、もしかしたら伝えたことを忘れただけかもしれない。石井マユコ。マユコの漢字は忘れてしまった。履歴書を読んだはずだけれど覚えていない。たぶんむずかしい漢字だ。二十四歳だからぼくのふたつ下のはずだけれどもっと若く見える。大学時代に見ていた先輩がそんな雰囲気だった。つまり二十一、二歳くらいに見える。この前来たとき、つまり最初の出社のときに顔が真っ白になっていて、この会社はアルバイトの女性に小麦粉を吹きかける習慣なんかあっただろうかと思ってしまった。日焼け止めを塗りすぎただけらしい。これがもとで石井さんはチーフに目を付けられている。チーフのお目付け役である係長はどうにかぼくを使って石井さんをやめさせないようにしたい、みたいなことを喫煙所で言っていた。ぼくにそんな手品みたいなことができるようには思えないけれど、チーフのセクハラにははっきりいってうんざりしていたし石井さんがすぐやめてしまったらぼくへのセクハラが激化するに違いないだろうからやるしかないだろう。思い出しただけで気が遠くなってきた。薬を使わなきゃ自分の領域に入ってきたものをすべて撃ち落としてしまうようなやつにそんな大車輪のようなことができるのだろうか。

 千歳県宇佐見市が誇る一大工業地帯のど真ん中にぼくらの会社はある。そのせいで、宇佐見駅から新宇佐見駅を経由して朝夕に五本ずつ送迎バスが出ている。秋からは三本に減便されるらしい。労働組合が騒いでいたけれど、ぼくは行きも帰りも三番目に乗っているので関係なかった。新宇佐見駅を過ぎると大型バスの中はそれなりに混むので車内が見通せる状況ではなかった。会社が見える最後の曲がり角にさしかかったとき、視界の端に石井さんの茶色い巻き髪を発見した。つまりぼくが教えなくても彼女は最初からこのバスの存在を知っていたのである。余計なことをしなくてよかった。危うく知っていることをわざわざ話のタネにしてしまう謎の先輩風をふかす人みたいになるところだった。とにもかくにもひと安心だ。

 彼女をこっそりなんの関心もないふりをして追い越し、タイムカードを切って三階まで階段を駆け上がる。すごく動悸が激しい。もう二十六だ。階段を駆け上がるだけでこんなに息が苦しくなってしまう。歩きながら息を整えて部屋にはいるとチーフがポットの浄水器を交換していた。

「おざーす」

 ぼくは雑に声をかけて鞄を自席に置くと給湯室でくたびれている雑巾にお湯をかけて絞り、チーフの席から先に拭いた。

「お、は、よ」

 チーフがわざとらしく耳元で囁いた。背中に鳥肌が立つのがわかった。たぶんあと十秒くらいで石井さんが来る。ここでぼくはチーフの机にぶら下がっている食堂の献立表が目に入った。さばの味噌煮だった。

「なんだ違うや」

 わざとらしくひとりごとを漏らす。

「え、どしたの?」

 近くで見たチーフの顔は昔歴史の教科書か何かでみたクレオパトラ像みたいだった。鼻筋がとおっていて、目元は派手なエメラルドグリーンのアイシャドウがかかっている。夜中、突然現れたらきっと怖いだろう。そういえばテレビのバラエティ番組で見たアイドルに似た顔の人がいたような気がするが、忘れてしまった。

「今日ぼくカレイの煮付けだと思ったんですよ、ほらこれ」

 今日の日付のところには「さばの味噌煮」としっかり手書きで書かれていた。元号すら変わったというのに手書きで、しかも内線のファックスで送ってくることに今気づいて笑いをこらえた。平成はおろか、おそらく昭和の時代から全く変わっていないのだろう。

「あらら、そりゃ残念。煮魚好きなんて渋いわね。こんど作ってきてあげようか」

 そう言われてぼくはチーフの手料理を思い出した。一瞬、悪くないかもしれないと思ってしまう。

 ここに来てすぐ、チーフのホームパーティにおよばれしたけれど、確かにチーフは料理がうまかった。筑前煮からナポリタンまでいろいろな料理をふるまってくれた。よくよく考えたら真網駅近くの、あの大きな4LDKについている決して小さくない庭でぼくや係長や課長に対してすごくにこやかに料理をふるまい、しかも最後になぜか感極まってリビングのど真ん中にあるグランドピアノでヴェートーベンの「熱情」を第一楽章から第三楽章までまるまる難なくあでやかに弾いてしまうチーフを見て、ぼくはなぜかそれを怖いと感じたのだ。その家に彼女がひとりで住んでいるということもどうしてかすごく怖く思えた。だから料理の腕は確かだと知っているけれどべつにぼくは煮魚が好きなわけじゃないので曖昧に笑ってごまかしておいた。チーフだってきっとかわいそうなひとなのかもしれない。ぼくは白馬の王子様なんかじゃないただの気持ち悪い生き物なのだから、そういうやさしさはどうかとっておいてほしいと思う。思うだけ。

「おはようございます」

「おはよ」

 石井さんの挨拶にチーフは短く言葉を切った。この程度で済んでよかった。そしてだれもそれに気がつかなくてほんとうによかった。浄水器の水が落ち始めたのですかさずポットに水を入れる。石井さんはパソコンの電源を入れた。チーフはスマホをいじり始めた。晴れ時々曇り、降水確率は二十パーセントくらいだろう。おそらく元々機嫌がいい日だ。珍しい。なにが効果的だったのかこっそり調べる必要がある。

 コピー機の紙を入れようとして、石井さんが既にセットしたことに気づいた。素早い。これならそのうちチーフも石井さんを気にしなくなるかもしれない。履歴書を破りそうになったときはどうなるかと思ったけれど、案外なんとかなりそうな気がしてきた。

「お、みなさん早いね。あとは島田君だけか」

 朗らかな声で入ってきたのはこの部屋のボスで、その証に彼だけが電気をつけたり消したりすることを許されているのだ。ちなみに課長が休みの時はチーフがつけたり消したりしている。

「あぶねえ、危うくコケそうだったよ」

 始業ぎりぎりに係長が入ってきて、これでこの部屋には全員が揃ったことになる。

 ぼくはようやくパソコンの電源を付けた。

 石井さんに伝票の読み方を教え、課長のコーヒーを淹れつつエクセルの使い方を教え、チーフの紅茶を淹れ、係長の煙草につきあい、チーフの紅茶を淹れ、営業の不機嫌な電話をいなし、チーフの紅茶を淹れ、気がついたら夕方になって終業の鐘が鳴っていた。びっくりするほどなにも出来なかった。気圧が低いせいだろうか。

 チーフがすたすたと帰り支度をする。

「ばいばい」

 ぼくにだけ聞こえる声で彼女はそう言った。返事は求めていなさそうだったので、なにも返さないでおいた。

「んじゃ、おつかれさん」

 課長は朗らかな笑みを浮かべて部屋の電気を消した。

「係長、ぼく今日残ります」

「いや、だめだ」

 係長が珍しく神妙な顔をしている。何か気に障るようなことでも言っただろうか。記憶にはない。

「マサ。おまえ、今日自分の椅子に座った記憶あるか?」

 どう考えてもぼくはどこかに腰掛けた記憶がなかった。そういえば朝あれだけ言っていたさばの味噌煮も食べずじまいだ。なにせこの部屋から出た記憶がない。

「答えられないだろ。出てたぞ、アレ」

 浅黒い肌と均整のとれた身体つきの割に係長は意外にめざとい。

ぼくがADHD――多動性および注意力欠陥障害――だと知っているのは、この部署では係長だけだった。

「そんな状態で仕事しても首を絞めるだけだぞ。前の会社だって、それでクビになったんだろ?」

 一応そういうことにしてあるので、ぼくは神妙にうなずいた。

「てなわけで、今日はつきあってもらう」

「ん?」

「いや、まあ、その、だな。行きつけの店でおまえの話をしたら、ちょっと会ってみたいって言うんだよ」

「はあ」

 その見た目の通り、係長は夜遊びが好きな人種である。もっとも、夜な夜な喫茶店に通っているぼくもひとのことは言えない。

「頼むよ。いい酒出してるところだから」

「いや、そう言われてもぼく飲めませんから」

 正確に言うと治療薬のストラテラが肝臓に負荷をかける薬なので出来れば飲みたくないだけで、飲めないことはないはずだとは思っている。ただ、別に飲みたくはないし、職場では飲めないことにしておきたかった。

「あっそうか。まあとにかく、行くぞ」

 結局係長は最初からどうしてもぼくを連れ出したかったらしい。いつもはバイクで来るのに、バスに乗り遅れて走ってきたなんて言い出すから妙だとは思った。確かになにも予定がなかったけれど、あったらどうするつもりだったのだろうか。

 結局、日付が変わるぎりぎりまでぼくは付き合わされるはめになった。まあ、これはこれで悪くはない。係長だってほんとうはぼくなんかと飲みたくはないのだしお互い様だろう。おごってもらってしまって申し訳なくなるくらいだ。

 いつになく頼りなくふらついている係長を連れ、宇佐見駅へ向かった。

「申し訳ない」

「いつものことじゃないですか」

「今日のおまえ、なんか心配だったんだよ」

 その根拠がわからなくて少し怖い。係長は定型発達者――つまり、ぼくのように発達障害を抱えていない人間という意味だ――の典型みたいなひとだから、ぼくには存在しない視点で「それ」をあぶり出すことができる。

「そうですか。ぼくはそんなに変わったところはなかったように思うんですけど」

「そうか? めちゃくちゃ忙しそうだったじゃん。というか、おれ、おもうんだけど」

 ろれつが回らなくなってきている。宇佐見駅でタクシーを待つことにした。

「マサって、おんな、きらいだよな」

「そうですかねえ」

 実際そう思われても仕方がない。ぼくは女性に対して言いようのない恐怖を常に感じているからだ。ぼくにない視点を持っている、ということは、つまりぼくが社会にとけこんでいないということが丸わかりだし、それをこちらに対するいっさいの気遣いを見せずにずけずけとあけすけに言ってきそうでとても怖い。

 女性恐怖自体は主治医にも言われた。ただぼくは、言い訳をすれば、女性だけじゃなくて他人がみんな怖かった。何をどう考えているのか、そればかり考えてしまう。だから悪意も善意も自分に向けられると思うと果てしなく怖い。特に異性であると冷静ではいられなくなってきてしまう。もっとも、今は自覚できるだけマシなのかもしれない。

「じぶんでおもわないの?」

「気にしたことありませんし。一応、昔は彼女とかいたんですけどね」

 うそではない。というか、これらをうそだというなら、ぼくはうそしか話すことができない。一生。死ぬまで。

「そうか。なんか、わるかったな。マユコちゃんのメンドウみるのつらいだろ。あとエンドウさんも」

「いえ、べつに。それは気にしないでください」

 ぼくはきわめて冷静に返す。

「おれがみるとカドがたっちゃうからさ」

 もっとも、この人は角を立てても丸くする方法を知らないからそうなっちゃうのであって、そういう意味ではあの部屋で今の役割を演じられるのはぼくだけだった。もしくは課長だけれど、きっとギャラが高すぎるのだ。

 ちょうどいいところにタクシーが来たので係長を乗せた。あとは大人同士でどうにかしてくれるだろう。意識もあるわけだし。

 きびすをかえして、あくびをかみ殺そうとしていることに気がついて、少し笑った。


 コハクさんが宇佐見駅のタクシー乗り場にいた。とても冷たい顔をしている。

 あいつがいた。

 あいつのせいか。

 今度こそ、必ず。

 ぼくは鞄からサバイバルナイフを取り出して、開いた。刃を縦にすると肋骨に挟まってしまうので、刃を横に構えてひたひたと近づく。

 あいつはコハクさんに抱きついていた。

 あいつのせいだ。全部あいつのせいで、ぼくの人生は粉々になった。

 すべての性犯罪者は殺すしかない。

 病気だから。

 社会にいてはいけない存在だから。

 ぼくはかれらを殺すことによって社会に存在を許されているから。

 確実にそれをとらえ、背中にナイフを突き刺した。

 あいつが絶叫する。

 もう一度刺した。

 ぐにゃり、と妙な感覚がした。

 もう一度。

 抵抗するあいつの手をはじいて、ナイフの柄についているインパクトハンマーで眼鏡を叩き割った。その隙にあいつを組み伏せ、二回殴る。

 心臓は身体のまんなかにある。

 死ね。

 死んでくれ。

 頼む。

 なあ、満足か。

 それだけ憎むことができて、お前は満足なのか。

 冷たい声にぎょっとする。

 あいつが、青いカプセルになっていた。


 なあ、死ぬべきはお前だろ。 

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