遼陽会戦後の公債価格
「我々はロシア軍に三万もの損害を与え味方の被害は敵の三分の一以下です。なのに勝利したとは見なされないのですか」
「だが包囲殲滅できなかった。そのため、日本の交戦能力に疑問が付いている」
これまでの戦い、鴨緑江、南山の戦いでロシア軍を日本軍は包囲殲滅し一方的な攻撃能力を見せつけた。
しかし、得利寺の戦い以降は、ロシア軍を取り逃がし、旅順では攻略に失敗している。
「そして、この遼陽でロシア軍主力を取り逃がしたため、日本にはロシアに勝てる力は無いのではないか? 緒戦の奇襲で準備不足のロシア軍を運良く撃滅できただけではないか、と思われています」
「しかし、それは思い込みでは? クロパトキンは撤退戦の名人などというあだ名を付けられる程、素早く逃げましたが」
「実際に名人だ。あのまま遼陽に止まっていたら我々によって包囲殲滅され、全滅していただろう」
ちなみに軍隊用語で全滅とは、総兵力の三割以上の損害を受けることである。
三割の損害を受けたら軍隊としての組織的機能は喪失すると考えられるからだ。
例えば会社やバイトでいつもの人数の七割で通常の業務を行わなければならない時、それも繁忙期に三割の人間が抜けてしまったら、業務を維持できるか考えて貰いたい。
機能不全か、出来たとしても著しく実績は減るだろう。
何より味方が少なくなると士気が落ちる。
三割の喪失はかなり重大な出来事だ。
九割を失ってなお戦った軍隊もいたが、例外中の例外である。
「全滅する前にクロパトキンは撤退し、ロシア満州軍の主力温存に成功。そのため我々は勝ってなおロシア軍と対戦しなければならない状況に陥った。これで戦争が長引き、日本が戦争が出来るか怪しくなった。それに旅順でも失敗している。日本が劣勢になったと考える連中は多い」
「まさか」
「事実だ」
「遠い東洋の事で思い違いをしているのでは。そもそも連中の考えをどうやって調査したのですか。第一、欧米の連中が日本軍が負けると思っているだけでしょう。それで我が日本軍がどうして勝利できない事になるんですか」
鯉之助は一枚の紙を差し出した。
会議の場で鯉之助が出した紙はロンドン市場の日本公債価格をグラフにしたものだった。
「日本の公債価格は開戦直後こそ低かったが、鴨緑江、南山の戦いの勝利で大きく上昇し遼陽会戦前八〇ポンドあった」
本来の歴史でも七六ポンド近くにまで上がっていたが、鯉之助によって改変され大勝利を収めた結果、価格が上がっていた。
「だが今送られてきた数字では七五ポンド。なお下落中で下手をすれば七〇ポンドを割る可能性が高い」
「何故ですか」
「言ったとおりだ。日本の交戦能力に疑問符が付いている。常陸丸事件と旅順攻略の失敗で下落していたのも原因だが」
常陸丸事件で日本海軍は制海権を奪えず補給路が寸断されるのではないか、旅順が陥落せず、艦隊が残っていて、補給船団を破壊されるのでは、という不信が欧米諸国に流れた。
幸い、新たな国債募集の噂があった上、黄海海戦と蔚山沖海戦の勝利によって日本の制海権が確保されたと見られ、ここのところ上昇気味だった。
しかし、遼陽会戦のあと、公債価格は下がってしまった。
「一方、ロシアの公債価格は多少下がったが維持されていると言って良い」
遼陽会戦で受けたロシアの損害は小さく、戦争遂行能力があると関係者が見ている証拠だった。
「普仏戦争のように日本が勝てるとは思われていない」
一番近い戦争は普仏戦争で、セダンの会戦でフランス軍の主力と皇帝ナポレオン三世を捕らえ戦争が終結したことが記憶されている。
日本軍が同じ事を出来なかったことが、日本が勝利することに、疑問を抱いている。
「それがどうしたというのですか。連中の考えで我々が負けるというのですか」
「日本に外貨がなくなれば、武器弾薬装備の購入資金がなくなる。そうなれば戦うどころか百万以上に膨れ上がりつつある日本軍を維持する事は出来ない。戦う前に食うことが出来なくて消滅する」
補給のなくなった軍隊は弱く、簡単に霧消する。
それは近年でも変わらず、近い例ではイラク戦争のイラク軍、朝鮮戦争初期の北朝鮮軍だろうか。
後方からの支援物資の供給が無くなった軍隊は、弱るどころか消え去ってしまう。
「価格が下がれば誰も国債を買ってくれず、外貨を獲得できないので軍が、いや日本の経済、帝国そのものが維持できない」
「まさか」
「事実だ。海外取引で使えるのは事実上金貨のみ。金本位――金貨の準備量で紙幣を発行し経済を動かしている態勢が維持できない。金本位を維持できない国とは何処の国も貿易、商売を――必需品を売ってくれない」
国債を売って金が用意できなければ、貿易が出来ず必需品を輸入できなくなる。それ以上に金の準備がないため金本位を維持できなくなり経済は機能停止、破綻する。
「決戦の前に日本帝国は崩壊してしまう」
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