魚の娘、水の音 伍

 雛子はユキちゃんの言うことを聞く。

 表向きは確かにそういうことになっている。しかしせいぜい女王様が家臣の諫言を受けるようなものであり、そう大した効き目があるわけではない。

 例えば女王様が癇癪を起こして、従者の首をはねよと命じるようなことがあれば、「まあまあ、人前で声を荒げるものではありませんぞ。お前、早う下がりおれ」とお諫めするお付きのばあや程度のものである。女王様が芯からご立腹であればばあやもろとも処断されることもあるだろう。身内のように振る舞うことが仕事だが、決して身内ではない。

 幸いにして雛子は基本的に大人しく、わがままを言うときもそうひどくはない。

むしろこの子は周囲が甘やかすものだから、叱られることを楽しんでいるような節がある。「ごめんなさい、ユキちゃん」としおらしく言う口元が、どこかほんのりと笑っている気がたまにする。

「ユキちゃん、気分が悪くはない?」

「大丈夫ですよ。どうしてですか」

 私たちは猪瀬のおじさんの後について、地下室へ降りるらしい階段を下っている。屋敷の中はきれいに掃除され、きちんと風も通しているらしかったが、ふとした瞬間に生臭い匂いがした。

「匂いが合わない人もいるの。野良育ちの人魚には、たまに海の毒を溜めたやつもいるから」

 相性が悪くって倒れた子がいたの、と悲しそうに言う。

「目と鼻からたくさん血を出して。とってもかわいそうだった」

 ちらりと猪瀬のおじさんを見やると、初耳だというふうに首を横に振った。

 恐らく先代か先々代か、以前のユキちゃんの誰かだろう。

「雛ちゃんは大丈夫なんですか?」

 雛子はうんと頷いて愛想よくにっこりする。きょうはどうやら機嫌がいい。猪瀬のおじさんがその横顔を見つめてぼうっとなり、私と目が合うと気まずそうに横を向いた。

 目と鼻からたくさん血を出すとはずいぶんな話である。

 私はそっと目や鼻に触れ、異変がないのを確かめた。


 海からは魚や貝のほか、さまざまなものが揚がるのだと魚屋の店主である猪瀬のおじさんは言う。

「漁師ってのはね、見かけはたくましくっておっかないように見えるが、中身は信心深いのが多くってね。変なものが釣れると、大抵は海に戻しちまうし、陸に戻ったら口を噤んじまう。しかし金持ちの旦那衆は、そういう変なものこそ欲しいってお方も結構いるのさ。漁師は関わり合いになりたくないが金になるなら少しは我慢する、ただし陸から持ち帰ったらすぐに手放してしまいたい。だからうまいことその仲立ちをするのが手前らというわけですよ。うちは爺さんの代から始めたらしいんですが、おかげさまで売り手も買い手も途切れたことがない。むしろ最近は買い手のほうが増えちまって、たまにどこからか噂を聞いて海外から買い付けにきたなんて方もいるくらいで」

 地下室の扉には大袈裟な南京錠が三つもついている。猪瀬のおじさんはなめらかにしゃべりつつ、大きな両手を器用に動かして複雑な鍵を開けていく。

「商売繁盛なのはありがたいんですがね、値が上がったぶん泥棒の心配なんかもしなくちゃいけませんや。この通り、鍵も増えるばっかりで」

 私は聞いていいものか迷いつつ、

「変なものっていうのは、例えば…?」

「一番多いのは人魚ですね。何しろ人気があるもんで。さっきも申し上げたように、野良育ちの人魚は毒を持っているのもいるんですが、うちはそれをきれいに抜いて売るんです。水のやり方に秘伝がありましてね」

 自慢げな様子にふと影が差した。

「――ただ、たまに失敗しちまうのもいるんですわ。そうしたら、そこはお嬢さんにお出ましいただくという寸法で」

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