第4話 その後

「どうしたの? リンドウちゃん?」


「あの、マリーゴールドさん。もしかして萌木杏子さんというのは……」


「それは私の名前よ。志乃ちゃんから聞いてたのね」老婦人の顔は輝いた。


「祖母は杏子さんがあの……どこにいるのか分からなかったんです」


「そうね、分からなかったと思うわ」遠い目をして老婦人は言う。


「あの、私、家からブレスレットを持ってきます。話さなくてはいけない事もあるから」


「じゃあ、あの丘のバス停のベンチの所で待ってるわ。私も早く受け取って、また旅に出ないといけないの」



*****************



 富美加は急いで帰宅し、祖母の自室だった部屋の和箪笥わだんすの一番上の引き出しから、和布に包まれたサファイアのブレスレットを取り出した。中を確認すると、昔と変わらない美しさだった。


 富美加が丘に着くと、ベンチに座っていた老婦人がにこやかに迎えた。


 富美加は布に包まれたブレスレットとともに祖母からの手紙を婦人に渡した。

「私、説明が下手なので、この手紙を読んでもらうのが一番良いと思ったんです」


 手紙を読みすすめる老婦人の表情はずっと穏やかだったが、時折、「まあ……」とつぶやき、表情が曇った。

 

「祖母に代わって謝ります。謝って済む事ではないのかもしれませんが……。でも祖母を恨まないで下さい。祖母はずっと質素に暮らしてて、苦労ばかりしてましたから」


「そんな苦労ばかりだったの? 幸せそうではなかったの? あなたのお祖父様と」

 そうたずねる老婦人の表情は、心底、心配している様子だった。


「その、普通に家族と幸せな生活だったと思います。祖父は無口で無愛想で、でも家族を大切にしてました。でも旅館はちっぽけなビジネス旅館になり赤字続きで、いつも祖母は苦労してました」


「経営の事で苦労してたの? 志乃ちゃんはあなたのお祖父様を慕っていて、幸せそうじゃなかっった?」


「それは……すみません。はい、慕っていたと思います。すごく愛情を感じているようでした。あんな夫婦に将来なりたいと思ってた位です。ごめんなさい、祖母はとても罪の意識を感じてたんだと思います」


「それならいいのよ」老婦人はホッとした様子だった。「幸せになるのに罪の意識を感じる事はないわ」

 

「怒ってないんですか?」


「ええ、怒ってないわ。でも勘違いしないでね、私は菩薩様でも聖人君子でもないから。一時はあなたのお祖母様を恨んだものよ。でもあなたのお祖父様の事じゃなくって、このサファイアのブレスレットの事でね」


「ブレスレットの事で?」


「ええ。私ね、あなたのお祖父様へのラブレターを志乃ちゃんに預けた後、恋だの愛だの言ってられない位の状況に陥ったの。お父様の経営する会社が不渡りを出して、その後借金の精算とか色々と大変だったの。家財道具も売り払ったりね」


「恋だの愛だの言ってられない位の?」


「ええ。元々、あなたへのお祖父様――あの頃はお兄様って呼んでたわ――への気持ちは、恋に恋するって程度のものだったのよ。それにね、志乃ちゃんのお兄様への気持ちに感づいて何となく私も好きってなったの。私、志乃ちゃんが好きってものにはいつも興味を示したの。可愛い文房具を持ってたら譲ってって頼んだし、素敵なブラウスが一枚だけお店にあって志乃ちゃんが欲しそうにしてても譲ってもらった。好きな歌手がいるって知ったら、負けないようにレコード買ったり」


「まあ、負けん気が強いんですね」


「ひどいでしょ? 私ね、志乃ちゃんがこれだけは譲れないって怒って言うのを待ってたの。でもそれがこんな事になると思ってなかった」


「こんな事?」


「私ね、ラブレターで何月何日の何時にこの、今私達の今いる丘のベンチに来てくださいって書いてたの。でもお兄様は待っても待っても来なかったの。そりゃそうよ。ラブレターは届いてなかったんですもの」


「……ごめんなさい」


「何度も謝らないで。私はね、その時点でお兄様の気持ちの確認はもうどうでも良くなってたの。とにかくサファイアのブレスレットを返してもらおうと思ったの」


「え? そうだったんですか? 祖父の事はもうどうでも良くなってたんですか?」


「そうよ。どうして? だって素敵な人はまた現れるでしょ? このサファイアは、実はかなり希少な価値ある物だったのよ。これを売れば父の借金は、私達の生活はとりあえず何とかなる位。そのような事態になって初めて知った事だったけど」


「え? じゃ祖母を一時は恨んだって言うのは?」


「このサファイアの価値でね。でも今、返してもらった。本当はね、ラブレターの封筒にブレスレットを入れるつもりはなかったのよ。でも志乃ちゃんにカマをかけてもなかなかお兄様への気持ちを白状しなかった。だからつい入れちゃったの」


「え? じゃあ借金の方は?」


「そりゃあ困ったわよ。ここで待ってもお兄様は来ないし、待ちかねてお兄様の下宿に行ってもそんな手紙知らないって言うし、志乃ちゃんは都会に出稼ぎに行って、出稼ぎ先の下宿には電話もないなんて言うし」


「待って。じゃあ祖父は、祖母が杏子さんからのラブレターを渡さなかった事、知ってたんですね?」


「そうなるわね。その話題は結婚の時、出なかったのかしら」


「たぶん。祖父は知らないって手紙に書いてありましたから」富美加は、祖父が祖母の想いをずっと前から知っていたうえで婚約した事を初めて知った。「それでどうしたんですか?」


「どうしようもなくなって夜逃げしたの。アメリカに親戚筋にあたる人がいてね、密航したの。戦時中、敵国に親戚がいると知れたらどんな扱いを受けるか分からないので隠してたから、周りは私達がアメリカに渡ったって誰も気付かなかったと思う」


「そんな……事になってたんですか? 言葉は? 英語を喋れたんですか?」


「そんなもん、何とでもなるわ。覚えればいいんだもの」


「はぁ……。何か驚く事だらけです。それでアメリカでずっと暮らしたんですか?」


「そうよ。メイドになって働いた先が良い奥様でね。勉強もさせてもらえたのよ。テニスもそこで習ったわ。いくつか恋をして、フッたりフラレたりで、やがて運命の人に出逢って結婚したの。私ね、女学生時代あなたのお祖父様に惹かれた理由は、実家が旅館を経営してるからって事もあったのよ。旅館の経営っていいなあって。それで向こうで小さなホテルを始めたのよ。実は、旅行中の故郷の知り合いに会って、志乃ちゃんはお兄様と結婚して旅館をやっている事を聞いてたの。そりゃあ心から祝福したのよ。志乃ちゃんが変に遠慮してるんじゃないか、心配だったもの。私の始めたホテルも、インって言うくらい小さいの。でも結構流行りだしてね。いくつもチェーン店みたいに増やしたの」


「はぁ。すごいです」道理で裕福なオーラが出ているはずだと富美加は思った。「幸せな人生だったんですね」


「そりゃもちろん。でもね、それは自分でつかんだ幸せよ。元からそうだったわけじゃないわ。それと志乃ちゃんのおかげね」


「え?」


「あの時、サファイアのブレスレットに頼ってたら、日本に残ってて、守りの人生になっただろうし。だったら今の幸せはつかめなかったもの。第一、先祖伝来の宝を危うく手放すところだった。リンドウちゃんのお祖母様がこれを預かって守ってくれたのね」


「マリーゴールドさん」


「だからリンドウちゃんもくすぶってちゃダメ。自分のしたい事には積極的に挑戦して、幸せを諦めないでね」


 それは、祖母とは違う力強い言い方だった。他所よその子がお祖母さんから忠告されている様子を思い出した。



「私が志乃ちゃんに『ソレイユ』って愛称をつけたのは向日葵ひまわりみたいに太陽に向かってほしいって意味だったんだから」

 

 ぼんやり考える富美加に、老婦人はもう一度、真っ青なサファイアを少し持ち上げ、感謝の意を示した。周りはいつの間にか夕焼けの薔薇色一色で、これも祖母の魔法なのかなと思った。



 ふと横を見ると、もう老婦人はいなかった。「バスも来てないのになぜ?」といぶかしく思う富美加の眼には、仲良さそうに丘を駆け下りていく二人の少女の姿が見えた気がした。昔風の女学生の制服を着て三つ編みにした二人の少女達で、笑い声まで聴こえた気がしたのに、目をらすと野が広がるだけだった。





翌日の海外ニュースより  (1996年)

――日系アメリカ人のホテルチェーン経営者交通事故死――

 八月十五日アメリカ合衆国カリフォルニア州中西部で、カントリー風の小型ホテルチェーン、マリーゴールド・インを経営していた日系アメリカ人のキョウコ・モエギ・ブルックナーさん(六十八才)が交通事故死。十八才で家族と渡米し、ハウスメイド、裁縫師、デザイナーを経て、結婚後、カントリー風の小型ホテル、マリーゴールド・インを経営。同ホテルは現在は十二店舗を持つ人気ホテルチェーンとなっている。

 長男のケン・ブルックナー氏によると、キョウコさんは、レストランで夫と食事後、入口近くで、暴走してレストランに突入した車と壁の間に挟まれたという。原因は運転手のブレーキとアクセルの踏み間違いであり、すぐに近隣の病院に運ばれ、集中治療が行われたが、六時間後に死亡した。

 なお、死後、ハンドバッグに半世紀前、紛失してたと思われていた家宝のサファイアのブレスレットが入っていた事に家族は驚いていたと言う。

 




二十五年後


「今日はお盆だから、お線香あげたの。あなたもお参りしてね。私は出かけるから、火には気を付けて」富美加が玄関で身支度を整えながら言う。


「はーい。って、ママ、お盆なのにバイトに出かけるの?」と高一の夏休みを蔓延防止措置で家で過ごしているリカが言う。


「そうよ。コロナ禍と言ってもファミレスはお盆の間って意外と忙しいのよ。学生バイトの子は休むし」


「そんなにまでして働かなくっていいじゃん」とリカ。


「勘違いしないで。私は楽しいから働いてるだけ」


「ホントにアクティブだよね、母さんは。来月からまた大学に通うんでしょ? 昔も一度、社会人になってから、奨学金もらって大学行ったっていうのに。私には絶対、無理」


「また違う事を勉強したいのよ。じゃあヨロシクねー」


「ねえ、この仏壇の前の写真の二人の女学生、誰? 一人は我が家の親族っぽいね。平面的でママにそっくりだもん。もう一人のコは令和基準でもすごい美少女なんだけど。あ〜あ、もう行っちゃったよ。あんなに走って」



〈了〉

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夏が燻る/サファイアの秘密 秋色 @autumn-hue

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