第171話
何か飲む?って、もうすぐ食べ終わりそうなときに聞かれて、じゃあクリームソーダって僕は答えた。
「何でクリームソーダ?」
「小さい頃ここに連れて来てもらったときに頼んでたから」
「へぇ。美味しかったってこと?」
「当時はそう思ってたけど、どうなんだろ」
「どうなんだろってお前………。そう言えば俺クリームソーダって飲んだ記憶ないなあ。あったかなあ」
「僕もほんの数回だよ」
里見がすみませんってウェイターを呼んで、ホットコーヒーとクリームソーダを注文した。
「里見もクリームソーダにすれば良かったのに」
「お前のもらうからいい」
「そのつもりでいたけど、里見から言われるとあげたくなくなるのは何でだろう」
「それはお前が夏目で俺が里見だからだよ」
「………うわ、すごい納得」
最後なのに。
最後だから。
僕たちはくだらない話をしていた。
お互いの目を合わさずに。
先に食べ終わった僕がお皿にフォークを置いて、ペーパーナプキンで口を拭いた。
沈黙が何か嫌で水を一口飲んだ。
でもそのまま沈黙は、結局里見が食べ終わるまで続いた。
僕たちはあと、何を話したらいいんだろう。
話すことは、言いたいことは、言いたかったことは、まだまだたくさんありそうなのに、きっとあるはずなのに、時間がなさすぎて何も出てこない。
食べ終わった里見が、さっきの僕と同じようにペーパーナプキンで口を拭いて、水を飲んで、夏目って僕を呼んだ。
「お前にはっきりばっさり振られたから」
「ん?」
言いながら里見がズボンのポケットの長財布から出したのは、紙だった。
キレイに折り畳まれたそれを、里見は広げてテーブルに置いた。
そこにあったのは。
『離婚届』。
「………」
「………もし。もしもお前がまだ俺を待っていてくれたら。そう思って、来ることを決めたときにもらってきた」
「………里見」
「それぐらい本気で来た」
何を。
何を言ってるんだ。里見は。お前は。
せっかく目を合わさず、どうでもいい話をして堪えていた涙が、一気に溢れて頬を伝った。
離婚届。
もし、僕がまだ里見を待っていたら。
「………バカじゃないの」
「………うん。バカだな。夏目のためなら離婚してもいい、なんて。じゃあ何で結婚したんだよって、な」
「………本当だよ。バカだよ。バカすぎる」
「バカついでに言えば、俺は今すごく我が家が恋しい」
「………え?」
「夏目と久保くんを見たせいだな。俺も奥さんにそんな風にしてみたいって、普通に思ったよ」
僕と、七星のように。奥さんと。
僕たちが里見の目にどんな風にうつっているのか、分からないけれど。
涙が溢れて止まらなくて、僕はおしぼりで涙を拭いた。
「………本当に。ずっと側に居てくれたんだ。奥さん。今も家で待っていてくれてる。感謝しかないよな、こんな俺に。それを今、すごく伝えたい」
「………うん。………うん」
「夏目に会いたかった。もしまだ俺を好きでいてくれたら、残りの人生を夏目にあげようなんて思ってた。なのに夏目には久保くんが居て、じゃあ土曜日までで俺はもういいって思ってた。それで終わりでいいって。………なのに」
ぽつりぽつりと里見は言って、広げた離婚届をくしゃくしゃって丸めた。
もし。
もしも。
里見が来るのがもう1年早かったら。
そしたら現在(いま)は、きっと今と違った。
今と違うから、どんな僕でどんな里見かは分からない。
結局うまくいかずに別れるだけかもしれない。
どっちが幸せなのかも分からない。
ただ。
最後の最後の最後の最後で、里見が僕を選ぼうとしてくれていた。それが分かって。
どうしても、涙を止めることができなかった。
泣く僕と里見の前に、お待たせしましたって、クリームソーダとホットコーヒーが並んだ。
小学生以来のクリームソーダは、大人になった僕には少し甘すぎた。
それでも時々里見に食べさせつつ、飲ませつつ、里見は交互にコーヒーを飲んで変な顔をしつつ、グラスをカラにした。
………終わり。
これで、終わり。
叶えたかった『すべて』は叶えることはできなかったけれど。
里見の顔を見れば分かる。
もう、これで十分だってことが。
それは僕も。
後悔しかなかった過去は回収され、消化され。
今ここに。
キレイにキレイに………昇華した。
七星は何時ぐらいに来るのだろうか。
連絡をしたきりだったなとスマホを確認したら、5分ぐらい前に美浜公園に居るってラインが入っていた。
「久保くん?」
「うん」
「もう来てる?」
「美浜公園に居るって」
「じゃあ行こう」
「………うん」
「俺が払う。これも小学生の頃からの夢」
「え?」
里見はぼそっと早口で言って、テーブルの上の伝票をさっと取って、持って、僕が突っ込むタイミングもないままにレジに行った。
ベタな夢を抱いてたんだね。里見。
デートで喫茶店に行っておごりたい、なんて、ドラマの見過ぎじゃない?
小さな里見の小さな夢に、胸の奥がきゅっとして、視界が涙でゆらりと滲んだ。
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