第110話
仕事部屋こもっていたのはそれでも30分ぐらい。
僕は居間に戻った。
里見は起きて、開いている窓から庭を眺めていた。
鳥箱があるミモザの木を、見ていた。
近づいた僕に気づくと、分かりやすく里見は安堵の顔を見せた。
そしてごめんって。
「昨日と一昨日の観察記録の仕上げやろ」
僕はさっきのことには触れず、置いておいたふたり分の記録用紙と仕事部屋から持ってきた色鉛筆をソファーの前のローテーブルに置いた。
里見とキスやそれ以上がしたいのかと聞かれれば、里見には悪いけど、したくない。
僕には七星がいる。
七星とのあの至福を知った今、もしもこの先七星と別れる日が来たとしても、好きな人以外となんて考えられない。
どんなに寂しくても、ぬくもりが欲しくても、好きな人以外とはイヤだ。
そして僕は今、七星が好き。
ただ。
………ただ。
「僕のにも何か絵描いてね」
ゆっくりとした動作で立ち上がって、テーブルの方に来た里見に言った。
「お前………。昔とは違うって分かってる?プロ相手に何かって何だ」
「何でもいいよ。久しぶりに里見の下手な絵が見たいし」
「………下手は余分」
「だって下手でしょ」
「………お前と比べるなって」
「比べなくても下手でしょ」
「お前………昔と比べてちょっと性格変わってないか?」
「別に変わってないよ」
「………絶対変わってるって」
「ほら、早く描いてよ」
ソファーに座って色鉛筆を持ったのに、持っただけで何も描こうとしない里見が、勘弁してくれってぼやいているのを、僕はどこかぼんやりとした気持ちで見ていた。
目の前の現実。
目の前の里見が、病気を、死を抱えているという現実。
見て分かるぐらいのものなのに、僕はまだどこかそれを受け入れ切れていないのかもしれない。
好きで好きで、でも里見が住んでいるところは遠くて思うように会えなくて、しかも許されなくて、思うことのほとんどが言えず、できずに、終わった僕たち。強制的に終わらされた僕。
目の前に居る、かつての僕が好きだった人。
もう二度と会えないと思っていた、好きで好きで堪らなかった人。
あんなにも好きだった里見に抱かれたくないなんて、抱き合うことだけが僕たちの全てだったあの頃の僕には、想像もできないことだろう。
僕は本当に、里見になら無条件で脚を開いていたから。
過去。
今。
そしてこれから。
それ以上を。キスを、それ以上をすることによって、里見の胸に残る罪は少しでも減るのだろうか。
それが救いとなって、死しか見ていない里見が、生きている今を見ることはできるのだろうか。できるようになるのだろうか。
僕と居るすぐに終わる今ではなくて、もっと大きな意味での、今を。
「夏目も俺のに描けよ」
「僕?僕の絵は高いよ?」
「え、金取るの?」
渡された、里見の観察記録用紙。
中2の『あの日』以来だった。こうやって一緒に書くのは。
「ちょっとこれ何」
久しぶりに、夏目と見上げた星。
そう短く書かれた文章の下、おそらくうさぎと思われる何かが描かれていて、まさかと思いつつ、聞いた。
「………ぴょんだけど」
耳の長い何か。左の耳が曲がっているから、そうかなとは思った。
思った………けど。
「下手すぎる」
あまりの下手さに、僕は笑った。
まるも描いてって無理矢理描かせて、それがやっぱり下手すぎて笑った。
笑って、笑って。
笑ったふりをしながら、僕は泣いた。
里見が悲しくて………泣いた。
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