第九章 神話再誕
九之一
江戸の外桜田にある広大な上屋敷の、庭園にある池にかけられた太鼓橋のそのアーチのてっぺんにたって、伊達政宗は光を失った右目を指で掻いた。
空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、輝く太陽が翠の水面に照りかえして、まぶしさに政宗はもうひとつの眼をしばたたかせた。
かたわらにひかえる青年が口を開いた。
「大坂のほうが、またぞろきな臭くなってまいりました。そろそろ出陣のご準備をなされたほうがよろしいかと」
「
片倉小十郎の進言を無視して、政宗はつぶやいた。
サン・ファン・バウティスタ号というガレオン船を建造し、支倉常長をヨーロッパに送り出して、もう二年になる。その慶長遣欧使節は、いまだ帰国する気配すらない。
「もとより、イスパニアとの同盟など、私はご無理と申し上げておりました」
「そういうな」政宗は面倒そうに云った。「人間五十年、わしもそろそろお迎えがきてもおかしくない歳じゃ。冥土へ旅立つ前に、もうひと花さかせたいと、夢想したとてバチはあたるまい」
「もう充分花は咲かせておいでかと」
「お前……、だんだん云うことが親父に似てきたな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めては、おらん」
政宗はほっとひとつ溜め息をもらした。
「イスパニアからの援軍が見込めぬとなると、こたびの計略は無理だな。あきらめよう。となると、あっちのほうももういらぬのう」
「面倒な事態に至らぬうちに、始末をつけておくべきでしょう。天正の一揆や大久保長安の一件のときのように弁明に忙殺されかねません」
「さもありなん」
そうして思い出したように、
「親父は元気か」
「最近は寝たり起きたりを繰り返しておりますが、病臥の身でも口のほうは壮健で」
「次の
「はい」
壮健と云えば、と政宗は話題を転じた。
「大御所もなかなか死なぬのう。ありゃあなんだ、化け物か」
「さて」
そのとき、橋のうえに、さっと一陣の風が吹いた。その頬をなでた生ぬるい風にはっとして、政宗はふりかえった。
「なんじゃ、
ふと気がつけば、いつのまにか小十郎の後ろに、黒衣の深編み笠をかぶった虚無僧姿の男が片膝をついていた。小十郎も政宗の視線を追って、首をまわして眼を丸くしている。
「そろそろ、ご用命がおありかと」深夜の風鳴りのような声で虚無僧が云った。
「お前、どこぞで盗み聞きしておっただろう」
「まあ、それが勤めでござりますれば」
「主人の話を盗む必要はない」
そう笑って云って、政宗はまた池に片目を落とした。
「あちらのほうには、もう手を打ってあるだろうな」
「はい、
「うん、まかせる。好きにやれ」
「かしこまってそうろう」
と答えた時には、芭蕉と呼ばれた虚無僧はすでにまた風になって消えていた。
「まだ伝えたいことがあったに。せっかちな男だ」
政宗の計略としては、徳川と豊臣の戦いを極力長引かせ、長引かせている間にイスパニアの海軍を大坂湾に引き込み、自軍と
が、当初の予想に反し、大坂での戦は、もうあとひと押しすればかたがつきそうな気配であった。
「大坂方もまったくふがいないものだ」
政宗は歯噛みした。
もっとがんばってくれれば、もっと夢を見られたのだ。関ヶ原のときもそうだった。あの戦もあっという間に混乱がおさまってしまってずいぶん落胆したものだった。
イスパニア軍の駐留地として淡路をあてがうつもりで、淡路を混乱させておく企図もあったが、それももう不要になった。
「うまそうな餅に思えたんじゃがのう」
政宗は溜め息をつくように云った。
イスパニア同盟も、せっかく肝胆をくだいて、
――画餅に帰した以上、つぎは婿殿(松平忠輝)でも
見えない右目がしくしくと痛む。明日は雨が降りそうだ。
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