六之十三

 碧は腋や背中から、どっと冷たい汗が暴溢するように流れ出るのを感じていた。

 ――どうしてこの女がここにいる……。

 この大女は大野修理の配下なのであろうか。だとすれば、一連の書簡強奪を裏で操っていたのは大野修理ということになる。

 面倒なことになったと、内心舌打ちをした。

 町家の庭に身を潜めていた時から、碧は身体の不調を感じていた。

 朝がたから頭が重い気はしていたが、今ではもうはっきりとした頭痛を感じるし、肌がひりひりと痛んで、関節も動かすたびに痛む。熱が出始めている兆候であった。先日の無理が祟っていた。素直に市蔵の忠言をきいて、書簡奪取後に休息をとるべきであった。それに昨晩も、作戦の準備でほとんど寝ていない。

 できることなら早々に任務を片付けて、どこか人気ひとけのないところで身体を休めたかった。

 いっそのこと、大女にすべてを打ち明けて、書簡を渡してしまおうかとすら考える。だがそれはあまりにも無責任に思えるし、だいいち、この女とのこれまでのいきさつを思い返せば、おとなしく話を聞いてくれるとは考えにくい。

「ご不在でしたら、いったん持ち帰ることにします」

 投げ捨てるように云って、碧はきびすを返した。

「そんなことは訊いちゃいないよ。その笠を取りな、って云ってるんだ」

 善珠が振り向きかけた碧の笠に手をかけて、強引に引き上げようとする。

 碧は、首の紐をさっと解き、笠を善珠に勢いよく押し付けるように突き出した。

 あっと大女が驚きつつも、

「やっぱりあの小娘!」

 開いたほうの眼で、しっかりと碧の顔を確認していた。

 そのまま碧は脱兎のごとく駆け出した。

 成り行きを見守っていた木戸番が驚いているのへ、

「刺客だよ!」

 云って、善珠は先端に短刀が付けられたライフル銃を構え、すばやく碧の背に照準を合わせた。合わせた瞬間引き金を引く。

 だが、日中撃ち続けた疲労からか、銃身がぶれて、弾は標的を大きくはずれて、道端の銀杏の木に当たって樹皮を砕いた。

「始末は私たちがつけるから、あんたは誰かに報告だけしときなっ」

 木戸番に命じて、善珠は駆け出した。ゼニヤス、トロハチが後に続く。

 まだ状況が呑み込めないのか、木戸番は茫然とした様子でそれを見送った。


 逃げる碧の紙一重の空間を、弾丸が通り過ぎる。

 むこうも走りながら撃っているので、照準を合わせづらいのであろう。

 前にも書いたように、このあたりには、人家が少ない。

 身を隠そうにも隠れる場所がなかなかない。

 碧は、東に向かって駆けている。

 こうなれば一か八かで、真田の出丸に飛び込んで、そこにいるであろう猿飛佐助に庇護をもとめるしかないと、発熱のせいでぼんやりする頭を回して懸命に考えた。

 また、弾丸が耳元をかすめすぎた。

 じょじょに狙いが正確になってきている。

 前方に、市場が立っているのが眼に入った。

 とにかくそこを目がけて走る。

 人影もだんだんと出始めてきていた。

 戦いの後で、市場で一杯やるつもりか腹を満たすつもりか、雑兵たちが、集まってきているようだった。

 碧はその人波に走りこんだ。

 一町ほどの細長いその市では露店がずらりと並んでいて、餅屋やあつもの屋に人だかりができていて、酒屋ではもう酔っぱらっている足軽たちが、騒動を起こしている。

 そんな人々を盾にするように、彼女は右に左に、縫うようにして走る。走りながら邪魔な具足を脱ぎ捨てた。

 人波のせいで、さすがに狙いをつけられない善珠が、空に向けて弾丸を放ちながら、

「どきな、どきなっ、巻き添え喰いたくなかったら邪魔するんじゃないよ!」

 その怒鳴り声を背に聞きながら、碧は右側の路地に逃げ込んだ。

 この辺りはもう、武家屋敷がずいぶん軒を並べている。

 ただ、身分の低い武家の家々が多く、町家とさほど変わらぬ、質朴な町並みが広がっていた。


 直後に善珠が路地の入り口にたつ。

 手下のふたりに、回り込むように、目顔で命じて、善珠はその路地に足を踏み入れた。

 碧の姿が、消失している。

 だが、善珠は、目敏く左の塀に足跡がついているのを見つけた。

 一見すると、そのまま塀を乗り越えたようにみえたが、彼女の傭兵としての感は、その塀を蹴って反対側の敷地内に飛び込んだと見抜いた。

 立ち止まると右側の塀に銃口を向けて、おもむろに引き金を引いた。

 狭い路地に銃声がこだまする。


 碧が身を伏せた直後であった。その頭頂部を、弾丸がかすめすぎた。

 そこは、塀と厠の間の狭い空間で、ひどい臭気の中で、碧は思案した。

 三人がわかれた今が各個撃破するチャンスではあった。だが、三人組はひとりひとりが手練れだ。ひとりと闘っている間に、かならず残りのふたりが駆けつけてくる。そうなれば、発熱で身体の自由がききづらくなっている碧に勝ち目はない。

「違ったかね」

 善珠のつぶやき声が、薄い塀板を通して聞こえる。

 碧は急激に痛みが強くなった頭に手をあてて、

 ――このまま行き過ぎてくれ……。

 這いつくばって、ただ祈るしかなかった。

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