六之七
辺りはもう真っ暗で、滔々と川の流れる音のみが闇に伝わる。
三十石船は、暗黒の川面を提灯のわずかな灯りを頼りに、静かに流れていく。
その船にむけて、下流からひとつの黒い影がすっと水面をつたって行って、近づく船の左舷にヤモリのようにぴたりと吸い付いた。
杉谷善珠は船のへりに背中をもたれさせて、低い屋根の下で窮屈そうに背伸びをして、長嘆息をもらした。
伏見港を出てもう四里あまり。そろそろ高槻辺りに達しただろうか。
桂川と宇治川と木津川が合流して淀川となって、川幅も水量もずっと増えた。心なしか船の速度もあがった気がする。
「ここまでくれば、安心かね」
善珠はひとりごちて、しかし愛用の鉄砲は手放さなかった。
あの高台寺の女中の護衛をしていた忍らしき娘が気になっていた。あれがもし徳川方の忍だとしたら、書状を取り返しにこないはずがない。
だが、日中に伏見港で堂々と待ち続けたのに襲ってくる気配はまるでなかった。返り討ちにして、娘が残りの書状を持っていたらいただき、でなければ、捕まえて拷問をしてでも書状を手に入れようと考えていたのだった。
「おいゼニヤス」
と彼女はからくりの整備をしている痩身の男に声をかけ、腰をかがめて、近づいた。
船は五十五尺のほどの長さで幅が八尺ちょっとあって、中ほどの三分の一くらいは萱の屋根がついているのだが、この屋根が低く造作されているものだから、大柄な善珠にはいささか窮屈だった。
「あんた、いつまでからくりいじってるんだい。朝は早いんだし、ちょっとは寝ときな」
「ええ、姐さん、これが終わったら休ませてもらいますぜ」
「トロハチなんぞ、船が出た時にはもういびきをかいてたじゃないの」
「そういう姐さんこそ、ちっとは眠ったらどうです」
「ああ、そうするよ。その前に、身体を拭くかね。もうまる二日も洗ってないから、身体じゅうべとべとだよ」
覗くんじゃないよ、覗いたらわかってるだろうねと脅しておいて、船の後ろの方に膝で歩いて移動すると、善珠は胸元から書状を出して無造作に置いて、小袖を脱いで屋根の張りにひっかけて目隠しにした。書状のうえに脱いだ下帯をたたみもせずに乗せる。船は三人の貸し切りなので他に客は乗っていないし、船頭たちからは屋根で遮られて見られないはずだ。
そうして手拭いを川の水に浸そうと船端から手を出した。
船側にとりついていた碧はどきりと大きな鼓動が鳴った。
彼女は、身体にぴったりと張りつく特殊な着物――現代のワンピース水着に近い――を身に付け、音もたてずにじっと船にとりついて機会を窺っていた。船上の三人組が眠ってくれるのを待つつもりであったが、幸いにも思っていたよりも早くその機会が訪れたようだ、と感じていた。
寒中水泳などはお手の物の碧であるが、十二月に入った淀川の水はさすがに冷たく、いつまで耐えきれるか自分でもわからないくらいであった。手早く任務を遂行したい。
しかし突然、船のはしから、不意に女の手がのびてきた。
――どうする、いったん離れるか……。
「姐さん」
と善珠に声をかけたのは、船尾で竿を操っていた船頭のひとりだった。ちなみにこの船の船頭は前後に四人いる。
「川の水で拭いたんじゃ、身体が生臭くなりますぜ。ここに井戸水があります。どうぞ、使ってください」
と云って、樽から桶に水を移した。
「おや、気が利くじゃないか。うちの馬鹿ふたりに爪の垢をでも煎じて飲ませてやりたいね」
「いえ、それほどでも、どうぞ」と船頭は樽を屋根のしたに入れた。
「あとは、夜が明けるまでに大坂についてくれれば文句はないね」
「それはもう、まかしてくんなさい」
「たのむよ。頑張ってくれたら、酒手もはずむからね」
「へい」
善珠は心地よさそうに身体を拭き始めた。
見るな、と云われれば是が非でも見ねばなるまい。
というのが男の本能というものだ。
ゼニヤスはそう思っている。
息を殺して吊り下げられた小袖に近づいた。
――まったく、いつ見てもいい身体をしていやがるぜ。
ゼニヤスは小袖の隙間から、姉貴分である杉谷善珠の裸体を堪能した。
わずかな灯火に照らされた彼女の身体は、胸乳も尻も大きく張り出して、鍛えられた腰はくびれているわけではないが、よい具合に締まっている。
浅黒い肌のわりに乳輪は綺麗な琥珀色をしてい、股には陰毛が色濃く繁茂していて、その奥のまだ見ぬ秘所を想像すると、破廉恥なこの男の脳は上気して、殺されてもいからこの豊満な肢体にむしゃぶりつきたい衝動に駆られるのだった。
――これで男嫌いとは、もったいねえ。
音をさせないように唾を飲み込むゼニヤスの視界の片隅に、白い何かが船べりからにゅっと伸びた。その何かは、置かれた善珠の下帯に伸びて行った。
――な、なんだ?
それが人の手だと気づくまでに、いくばくかの時間を要した。
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