四之十一

 翌日から、ふたりはなにかぎくしゃくとした、いや、主人と飯炊き女というくらいの本来の関係の距離感を間に挟んで、数日が流れて行った。

 祥馬は、夕方になると卜占ぼくせんに出かけていったが、日中は家にずっといた。

 ふたりっきりでひとつの家にいると、いたたまれないような気分になってくる。

 そんな時は、鶫は何かしらの理由をつけて家を離れる。買い物に行ってくるなどと、声をかけても返事は返らぬ。

 今日の彼女はしかし、市場とはまったく違う方向へ脚を向けた。清水寺のほど近くにある京の拠点の忍屋敷に向かった。

 幸い、大坂の戦も開戦間近だった。これが幸いというのは、戦が近づけば、かえって手が空く者も出てくるからで……。

 屋敷と云っても、ただの町家であるが、その屋敷には、市蔵という老人が暇をもてあまして茶をすすっていた。

「こりゃ珍しい。音羽おとわのじじいは元気か」

 老人は久しぶりに会った孫娘を見るような眼差しをした。

 鶫の祖父弥左衛門は「音羽ノ城戸きど」と渾名される忍術の達人で、鉄砲の扱いに長け、天正伊賀の乱の時に信長を狙撃したが失敗に終わったという伝説も残るほどである。

「ええ、いいかげん迎えが来てほしい、なんて、いつもぼやいていますけど」

 久しぶりにあった顔馴染みの老人に、鶫は心がほぐされるようだった。祥馬は悪い人間ではないが、やはりあの無口さには気疲れしてしまう。先日の一件を別にしても……。

 縁側に腰掛けて、京特有の坪庭を眺めながら、老人と少女は喋った。

 近況も話し終えて、鶫が任務の仔細を告げると、

「よしまかしておけ」

 市蔵は、待ってましたと云わんばかりに、胸を叩いて調査を引き受けてくれた。

 鬼巌坊と祥馬が何か企んでいる様子の、あの屋敷を調べてもらうことにしたのだ。彼女本人が直接行動してしまうと、ふたりに出会ってしまう危惧があったためである。

 市蔵は、白くて垂れ下がった眉毛に柔和な眼をして、いつもにこにこと微笑んでいる好々爺であるが、そう見えて、実際は諜報のエキスパートである。彼にまかせておけば間違いはない。

「それよりも、うちの紀次郎はどうじゃ」

「なにがです?」

「なにがというて、嫁入りさきにきまっとろうが」

「やめてください、任務中です」

「お前が来てくれれば、わしもこのさき眼の保養ができて、寿命が延びるかもしれん」

「やめてください」

 この好色じじいめ、と口に出したわけではないが、心で罵りながら笑顔で答えた。

 屋敷を出て帰路につくと、鶫はさっきの話に出た紀次郎の顔を思い出した。長男のせいでもあろうか、どこかのんびりした所のある青年であった。いい人ではあるが、いささか頼りない。忍としてもあまり上達しなかったため、緊急時でもなければ駆り出されることもなく、普段は畑仕事をしている。彼が鶫に寄せる好意は以前から察していた。彼の細い眼をしていて優しげに微笑む丸い顔は、どこか祥馬に似ているような気がした。

 私はちょっと愚図な人に好かれるたちなのかしら、などと思うのだった。

「こうぼんやりしていたら、また結界に嵌まってしまうわね」


 さて、暇にあかせて余談である。

 筆者も京都に住んでいたころ、二度ほど結界にはまってしまったことがある。

 一回目は日暮れ直後、ちょうど鶫のように見たこともない家並みの中をさまよった。わけもわからず歩き続け、ふと前方の道のかたわらに白い服をきた女性がたっており、その人は、街灯もなく真っ暗な路地であったのに、なぜかくっきりと見え、導かれるようにそちらに進んで彼女の横を駆け抜けると、知っている道に行きつくことができたのである。翌日、不思議に思って、その道へ行ってみたが、前夜通り抜けた家並みなどどこにもなかった。ちなみに、その女性が生きている人であったか、または霊魂のようなものであったのかは、今もってわからない。

 二回目は、通りをただ歩いていただけなのに、ある区間の記憶がまったく消し飛んでいた。さっきまで三条通りにいたのにふと気が付けば四条通りにいたという具合である。

 みなさんも、京都の道を散策されるおりは気を付けられたい。

 もっとも、気を付けていても結界の迷宮に嵌まり込んでしまうものであるが。

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