四之十

 鶫は、真っ暗な道を歩きながら祥馬の腕に、ぎゅっとしがみついていた。そうしていないと心の均衡がまるで保てないような気がして。

 祥馬は何も云わずに、しかし鶫をいたわるように優しい足取りで歩いていた。

 ――この安心感はなんなのだろう。

 鶫は彼の腕のその温かさに、心がまるでとろけていくような気持ちを感じていた。今まで味わったことのない、この奇妙な心地よさはなんなのだろう。

 彼も心臓の鼓動を高鳴らせているのがわかる。

 そうしてだんだんと、それぞれの身体の中心で打ちつける鼓動が同調してきて、まるで身体が、いや、ふたりの魂がひとつに混ざりあっていくような錯覚をおぼえるのだった。しかしそれは、本当に錯覚であっただろうか。

 家に着き、部屋にあがると、ふたりは自然に抱き合った。

 雨戸はたてずに出かけてしまったので、すれてところどころ薄くなった障子を通して、月明かりがほのかに照らしていた。

 うすく、白く、優しく、その光は部屋を包んでいた。

 そんな紙一枚で外界と隔てられた空間でふたりは抱き合った。

 そして、何度も唇を重ねた。

 やがて、床にもつれあうようにして、折り重なって身を横たえる。

 ――おちつけ、おちつけ。

 鶫は自分に云い聞かせるように、心でつぶやいた。

 里の、同じ歳ごろの娘は、もう何人も嫁に入っているのだ。もう赤子を生んだ友達だっているのだ。こんなことを体験するのは、遅いくらいなのだ――。

 歯が、かたかたと音をならした。

 諸肌を出した男の肩に回した腕の、その指先が、こまかく震えていた。

 ――おちつけ、おちつけ。

 彼の手はそっと鶫の帯をとき、ひらいた胸元にその顔をうずめた。熱い吐息が、胸をくすぐった。

 最初は痛いだけで、なにがなんだかわからないうちにおわってしまった、と誰かが云っていた。

 温かい手のひらが乳房をまさぐり、その舌が先端を舐めている。

 ――本当なのだろうか。そんなに苦痛をともなう儀式なのだろうか。

 ひとしきりの愛撫が終わると、彼はふと動きをとめた。

 そうして、なにか熱を持ったものが、彼女の股の間に迫ってくるのを感じるのだった。

 ――終わるのだ。私の清純の時代が終わるのだ。

 秘部の入り口にあてがわれた、その先端はしかし、すぐにその場を離れていった。

 ――どうしたんだろう。

 鶫が思った直後、へその周りに何か熱をもったものがまき散らされた。

 それがなんであるか、なにが起きたのかを理解するまでの間に、なんども荒い呼吸を繰り返した。

 祥馬は身体を離すと、

「ごめんなさい」

 と小さくつぶやいた。

「私のほうこそごめんなさい」

 と鶫は、なぜか謝りかえした。

 彼女は身体を起こして、お腹についたものを懐紙でふき取ると、着物を引っ掛けてそっと立ち上がって、隣室へと入った。

 戸板をしめるとき、眼の端に、悄然とうなだれる、月明かりに浮かぶ彼の姿がちらりとうつった。


 ――なんということだ。

 鶫は布団に身を横たえた。

 ――この早漏陰陽師め!

 これが嵐であったら、品性をかなぐり捨てて声に出して罵ったことであろう。

 ――この早漏陰陽師め!

 しかし鶫は心のなかで罵った。

 私の覚悟はなんだったのだ。

 私の高まりきったこの感情の行き先はどこへ向けろというのだ。

 彼女は悶えるように両腕で自分の身体を抱きしめ、夜具のなかでなんども寝返りをうった。

 ――私の初事が、こんな……。

 何かやりきれないようなくやしさが身体の中を駆け巡っている。

 ――なんということだ、なんということだ。

 繰り返し心の中でつぶやいた。

 しかし憤怒の感情とともに彼のうなだれた容貌が脳裏をよぎった。

 何度も何度も、その姿は頭の中を、怒りの感情の隙間を割り広げるように浮かんできて、すぐに消え、また浮かぶ。一瞬目尻で見た彼の横顔は冷たい月明かりに照らされて、その凹凸に陰影が刻み込まれ、まるで幽鬼のようですらあった。

 隣の部屋からは、まるで人の気配がしない。

 鶫の気がつかぬ間に出て行ってしまったのではないか、と云うくらい、呼吸の音すらも、衣擦れの音すらも聞こえてこない。

 彼女はまた寝返りをうって、身を彼のいるほうへと向けた。

 そして、戸板の向こうにいるはずの彼の姿を想った。

 ――傷ついたのは、私だろうか。

 本当は、彼のほうが、もっと苦痛に沈んでいるのかもしれない。彼を恨むべきではない。恨んではいけないのだ。

 だが、彼女には、彼をなぐさめてあげられるような人間的余裕は、まだ身に付けていなかった。

 ただ、沈黙の中で彼の苦衷を想いやることしかできなかったのだった。

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