四之九
辺りはすっかり暗い。
もう提灯なしで歩くのが困難なほどであったが、鶫は忍である。夜目がきく。ので、平然と暗い京の通りを南へ向かって歩き、四条通りに出ると西へ向かい、もう間違うはずもない、大宮通りまで来て、南へ進路をとる。
一町も歩いたころだったろう。
――ここはどこだ?
鶫の全身に寒気が走った。
道を間違えたのだろうか。いやそんなはずはない。
その路地は、夜目のきく鶫でさえ狼狽するほど、暗く、両側に古びた小屋のような家々が並ぶ道の先に何が待ち受けているのか、まるで見当がつかない。
しかも狭い。
幸徳井家前の道よりはさすがに広いが、しかし、両腕を広げると並んだ家の壁に手が触れてしまいそうだ。
しかも、人の気配というものがまるでない。
家々の戸板の隙間や障子をとおして火が灯っているのはわかるのに、そこに人はいないのだ。家の中を覗いたわけではないが、なぜか確信できる。
しかしどうするか。
道を間違えたとすれば、大宮通りの前に曲がってしまったのか、それとも通りすぎてしまっていたのか。
――おかしい、おかしい。
それでも鶫は歩いた。
南に進んでいけば、かならず知っている道に到達するはずであった。
しかし、南に進んでいるようで、東に進んでいるようにも、西へ向かっているようにも思えてくる。
十字路に出ても、右に折れていいやら、左に曲がればいいやら。
いっそのこと、思いきってどこかの家の戸を叩いて、道を尋ねたほうがいいのかもしれない。
だいたいこの辺りに、こんなに家々が密集した街があっただろうか。
こうして重く淀んだ空気の中にい続けると、やがて溺れてしまいそうな不安に苛まれる。
自然、鶫の脚ははやくなっていった。
不安、恐怖、孤独感が混淆してどす黒い闇と化して、彼女の後背からにじり寄ってくるようだった。
速足に歩き、陰気な路地をあてどなくさまよい続けた。
やがて、時間の感覚すらも、異常をきたしていることに気が付いた。
迷いはじめて、どれくらいたっただろう。半刻か、四半刻か、それとももう一刻以上たっているのではなかろうか。
もうどれほど歩いたのか、どれほどの時間が流れたのか、まるでわからぬ。
後ろにいたはずの黒い闇は、いつしか彼女をつつみこんで、この異常な空間に永久に押しとどめようとするかのように、全身にまとわりついていた。
――やめて、もうやめて。お願いだから私を解放してっ!
そして、家のかどを出た瞬間だった。
左の肘を、ぐいと何者かにつかまれた。
鶫は叫んだ。忍として訓練を受けた彼女が、あげるはずのないほどの恐怖の叫びであった。身をすくめたその口から、長く尾を引く叫声の、それでもしだいに弱まるころあいを見計らうように、
「落ち着いて、落ち着いて」
腕をつかんだその腕の声の主は、静かに彼女に囁くのであった。
「あ、ああ、祥馬さん……」
鶫はあえいでいた。あえぎながら、彼の顔を見つめ、彼の胸に思わず飛び込んだ。
「どうしました、お縫さん?」
とまどいながら肩をつかむ祥馬に、鶫はその偽名が自分に向けられたものだと気づくのにしばらく時がかかって、
「あの、私……、お見苦しいところを」
深く呼吸を繰り返しながら、祥馬から身体を離して、
「道に、迷ってしまったようで」
「ふふふ」と祥馬は少しいたずらっぽく微笑んだ。「結界にはまってしまいましたね、お縫さん」
「結界?」
「はい、京という街は、平安の昔より、数々の陰陽師や修験者、僧侶などが、妖魔や怨霊の侵入を防止するために、様々な結界を張ってきました」
張った術者さえも亡くなり、役目を終えても結界は機能し続け、それらは時を経ていくつも積み重なり、増改築を繰り返した家のように、複雑に入り組んだ構造を生成してしまっている。そんな結界の網目に、なんの罪もない人が、まったく無関係な人が、偶然に嵌まり込んでしまう時があるのだと、幸徳井祥馬は語った。精神や肉体の波長が結界に同調するとそうなってしまうのだそうだ。
「そんな時は、あせらず、決められた順序で進路をとればよいのです」
もちろんその道順を知っていればの話ですが、と微笑んで、祥馬は鶫を
「さあ、落ち着いて私の後についてきてください」
祥馬は歩きはじめた。
「ちゃんとした道順をとらないと一生抜け出せない、というわけではありませんが、気がつけば何里も先に飛ばされている、なんてことになりかねません。京の道を歩く時は、しっかり意識を持って歩いてください。ぼんやりしているとまた嵌まりますよ」
そして、右に曲がり左に曲がり進んでいく彼のあとをしばらくついていくと、
「あ、ここは……」
悪夢から覚めたように鶫は辺りを見回した。
そこは、幸徳井家近くの、鶫のすでになじんだ景色が広がっていた。
くすんだ商家の壁も、漆喰の剥がれた寺の塀も、この数日何度も目にした景色であった。
鶫は心の底からしぼりだすように、長く嘆息をついた。
「さあ、もう安心ですよ」
祥馬は振り返って、やさしく微笑みかけた。
鶫は、何かわからない衝動が湧き起こってくるのを感じた。それは急速に彼女の心いっぱいに溢れ、そしてその衝動に押し流されるように、彼の腕にしがみついたのだった。
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