一之十二
「それでいい」
神父は静かにつぶやくのだった。
碧は、彼の冷静すぎる声音と他人事のような語り口を耳にし、かっと頭に血が登っていくのが自分でわかった。そして、
「お前かっ!」憎悪の塊を吐き出すのような声で叫んだ。「お前がこの人たちを操ったのかっ!?」
「バテレンの妖術なんぞ使いやがって!」甲板の向こうで嵐も叫んだ。
「バテレンは妖術も魔術も使わんよ。使うのは、教義から逸脱した外道だ」神父は自分を嘲るような笑みとともに云った。
「たしかに、あなたは外道ね」鶫が蔑むように云う。「人間の人格を無視し、自分のための人形にして操作する、そんなことを平然とやってのけるあなたは、人間の外道よ」
「ちなみに、我が名誉のために云っておくが、その三人に術をかけたのは私ではない。花神という男だ」
「花神?」
碧は、その名が異国の神父の口から漏れ出たことに、一種の違和感と、ある種の驚愕を同時に感じた。
「ほう、知っているのか」
神父は興味深そうに、眼を細めた。
「花神という男は、面白い男だな。私が教えた
あの時、――花神が仲間に躊躇なく術を施した時、エミリオの背筋に冷たいものが流れた。
――この男は、はたして傑物なりや、奸物なりや。
それは疑念でも失望でも嫌悪でもなかった。
花神恭之介という天才の行く末を見届けるという、新たな娯楽が生まれたことへの喜悦であった。喜悦の高鳴りから生じた悪寒であった。
――そうか。
花神が云っていた碧という娘は、あの三人の、おそらく赤い着物を着た娘だろう。そして彼はこう云っていた。彼女は役に立つ。やがて我が同士となってともに道を歩む女だ。ここにやってくるかもしれないが、殺してはいけない、と……。
「嘘をつけっ!」碧は神父の云うことを信じようとはしなかった、是が非でも否定したかった。「恭之介はどこだっ?なぜ彼らに術をかけたというんだっ?」
だってそうではないか、花神が仲間に妖術をかける必要がどこにある。生きているなら、どうして私の前に姿をあらわさないのだ。許婚である私の前に――。
「花神はもうここにはいない。どこへ行ったかは、お前に教える必要はない」
「その口ぶり……、知っているんだな。だったら、どんな手段を使っても、お前に白状させてやるっ」
「さあ、できるかな」
嘲弄するような神父の笑みに、碧の激昂は頂点に達した。
「やってやるっ!」
碧の怒号が甲板に轟いた。それを合図にして三人が、同時に神父に走り寄る。
碧は、船尾楼の手前で跳躍し、放物線を描きながら、屋上の神父に忍刀を振り下ろした。
神父は、それをするりと避ける。
避けたところに、嵐が突進してきた。
身をよじって神父は避けた、まるで柳の枝が風になびくように避けた。
直後に、鶫の十字手裏剣が三つ、残像の長尾を引いて飛んでくる。
今度は、それを避けはしなかった。神父はただ、前に掌を伸ばす。すると、そこに見えない盾ができたように、空中に手裏剣が静止した。したと見えたら、手裏剣が反対に鶫に向け放ちかえされた。あっと叫んで、彼女は床に這いつくばって避けた。手裏剣が背後の手すりに突き刺さる。
神父は不敵に微笑む。
三人は、神父を囲むように位置した。神父にはもう逃げ場がない。船尾楼の後端から海に飛び込みでもしないかぎり。
だが、追いつめているように見える三人のくノ一のほうが、実際は追いつめられていた。
なぜ攻撃が当たらないのか、かすりもしないのか。
忍刀を、鉄籠手を、短刀を構えて、三人がにじりよる。
「そこまでだ。それ以上、近づいてもらいたくはないな」
小ばかにしたように云って、神父が手を振った。
すると、神父を囲むように、炎が床に立ち昇った。
まるで三人との間に結界を描くように。
しかも、その炎は赤くはない。
だが、三尺ほどの高さの紫炎の壁だった。三人のくノ一なら、なんのこともなく飛び越せる高さだ。
助走をつけようと、碧が足を踏み出す。
ところへ、
「おっと、その炎に触れないほうがいい。その炎は、全てを燃やし尽くすまで絶対に消えることはない。炭になり、灰になっても消えない。物質が完全に無に帰すまで消えないのだ。大人の忠告は素直にきくのだな」
確証はない、と碧は思う。だが、神父の今までの行動から見ても、真実の可能性は充分あった。
神父はふたたび不敵な微笑を浮かべ、
すると、甲板の隅に、ぽっと蒼紫の炎が広がった。
神父は指を数回鳴らす。鳴らすたびに、マストに、帆に、船尾楼に、次々に炎が燃えあがっていく。
「さあ、早く逃げないと、逃げ場がなくなるぞ」
あきらかな嘲弄の笑みとともに云って、彼は深々と、三人に向けて頭を下げた。
「申し遅れたが、私の名前はエミリオ・エンシーナ。君たちがバテレンと呼ぶ宗教の教えから逸脱した、外道さ。以後、お見知りおきを」
そして神父は消えていった。黒い色の、まるで
三人は、炎の向こうに消えていくエミリオをただ凝視していただけだった。なすすべもなく……。
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