一之十一

 エミリオ・エンシーナは船尾楼の屋上に立ち、登る朝日を見つめていた。

 同じ太陽であるはずなのに、イスパニアの朝日とはなにかが違うという気がする。それは空気の湿り気のせいだとか、太平洋と地中海の水の違いのせいだとか、いろいろ想像はできたのだが、しかし、その違いに、彼はどこか酔うような心地よさを感じた。

 数日前、彼の前に忽然と現れた、花神恭之介という男。

 エミリオは、かつて手に入れた深紅の魂魄結晶アルマクリスタルを、その男に与えた。

 その赤い結晶は小さい、ほんの親指ほどの大きさの小さな宝玉。

 だがルビーよりも鮮やかで、血よりも深く濃く、精神が吸い込まれそうな澄んだ色彩の神秘の宝玉。

 手にした者は、無限といえるほどの妖力を得る、途方途轍もない力を内包した魔性の宝玉。

 エミリオはその力を御しきれなかった。御しきれなかったばかりか、宝玉に秘められた強大な力によって、彼自身が蝕まれていったのだった。

 その莫大な力を、花神はたちまち己のものとした。そしてその魔力を使ってエミリオを浄化し、治療し、活力をあたえた。

 それからエミリオは、体力が完全に回復するまで、船に留まっていた。

 あの時の相貌を知っている者が今の彼を目にしたら驚くだろう。

 たった数日。

 痩せて衰えて、すぐに死んでもおかしくない幽鬼のようだった面影はもうどこにもない。肉体だけではない。亜麻色の髪も髭も綺麗に整えて、どこからみても、ひとかどのキリスト教の神父にしかみえなかった。

 今、六尺(百八十センチ)ちょっとの引き締まった身体に、朝日を浴びて、彼は思う。

 あの時、エミリオは花神に云った。

「その宝石と同じものを、いくつか集めろ。そうすれば、不死の秘術にいたる道が開かれるだろう――」

 その宝玉は、人の魂が結晶化したものであった。

 不純物の混じった魂魄結晶はいくらでもある。それこそごく普通の水晶と認識されているものの中に、魂魄結晶も含まれていることがある。

 しかし、高純度のものは、おいそれと見つかるものではなかった。

 それが、極東の島国に集中して存在していることを、エミリオはあらゆる文献を紐解いて、知り得たのだった。

 純粋な結晶の存在を確信した時、もはや彼は彼自身の欲望を抑えることができなかった。

 太古、徐福が始皇帝のために探し求めた蓬莱の秘術。

 古昔、マルコ・ポーロが追い続けた黄金の国ジパングの秘術。

 神話の時代よりあらゆる権力者や冒険者が渇望し、追い求めた不老不死の秘術がそこにある。

 そうして、地球を半周して、ここまで来たのだ。

 それほどの力を手に入れて、花神が何をしようとするのか、その胸裏をエミリオは知らない。

 ただ、ひと目見て、彼が天才だと看破した自分の直観に間違いはなかったと思いたい。

 花神こそ、腐敗した世界を変え、愚劣な人間を正道へと導く、稀代の傑物だろう――。

 彼は、自分の野望の成就と運命の流転を彼に託した。

 「なんだ、騒々しいな」

 エミリオは想念の邪魔をする、無粋な叫声に、眉をひそめて耳をそばだてた。


 自分を殺めろと云いながらも、庄一郎は鍔迫り合いのまま、碧を凄まじい圧力で押してくる。

「できない、無理です、庄一郎どの」

「やれ、碧」と彼は昔のように、呼び捨てにして云った。「俺を殺すのだ。もう……、意識が……、妖術に」

「妖術?」

 碧が驚愕するように云った。実際、彼女の心は錯綜し震撼し、もはや思考は千々に乱れてどうしようもなかった。

「早くしろ、でないと、俺は、お前になにを、する、か……」

 と……。

「殺してやるといい」

 声が聞こえた。

 深い、渋い、男の声だった。

 ――誰だ?

 碧は忙しく眼を動かした。すぐに声のした方向を探し当て、そこには、

「バテレン?」

「その男は魔術のようなもので、操られている。正確には、理性のたがをはずされている、と云うべきかな」

 神父は、船尾楼の上に端然と立ち、下腹部の前で両手を重ね、静かに――まさに神に仕えるものの落ち着きをもって、静かに語るのだった。流暢な日本語で、淀みなく。

「しかしその男は、術に抗い続けている。見事な精神力と褒め讃えよう。だが、いつまでも持ちはすまい。術に支配され完全に野獣と化す前に、その男の望む通り、やすらかに永遠の眠りにつかせてやるのが人の情けというものだろう」

 歳は四十歳くらいだろうか。異人のことで碧たちには正確な年齢ははかりかねたが――。彼はまるで教義を伝道するように、優しく語るのだった。

「勝手なことを」

 碧は歯を食いしばりながら、神父を呪った。

 それが、神に仕えるものの云うことか。仏教だろうとキリスト教だろうと、洋の東西を問わず、宗教とは人の魂を救うためにあるのではないのか――。

 庄一郎は、首を、ぐっと突き出した。

 そしてその突き出した首を、碧の刀の刃にあてたのだった。

 その眼が、うながしている。

 碧はぎゅっと眼をつぶった。固く、世界のすべてを拒絶するように強く。

 そうして、刀をそっと動かした。

 顔に生暖かいものが吹きかかった。それが庄一郎の首すじから噴出する血液であることもわかった。生きていた人間の血だと……。

 甲板の反対側では、嵐が忍の背後に回り、首に腕を巻きつけ、ねじるように折った。

 船首楼の上では、鶫が手裏剣を放ち、忍の心臓を貫いていた。

 そして三人は放心した。悄然とただ立ち尽くした。

 彼女たちが生まれて初めて奪った人間の命は、同胞の命だった。

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