一之八

 碧たち三人は、命令を受けて、手早く身支度を整えると馬で里を発った。

 東湯船から志摩の目的地まで直線距離で約二十里(八十キロ)、道なりに進んで津(阿野津)、松坂、伊勢、鳥羽を経由すると二十五里はゆうに超える。

 そこで、まず、津までのおよそ九里の道程を馬で駆けた。

 途中で陽が暮れてしまいはしたが、約一刻で到着した。

 津藩は、藤堂高虎の二十二万石の領国である。

 伊賀も津藩に組み込まれているため、(長くなるので詳細な解説は省くが)藤林家も藤堂家の家臣ということになる。

 なので、津城下にも屋敷があった。

 門前で来訪を告げると、家士が数人飛び出してきた。

「これは、夜間に遠乗りとは、関心しませんな」

 屋敷の留守居役の小杉平兵衛という痩身の老人も、加瀬又左衛門に勝るとも劣らない、うるさ型の人であった。

「いや、違うのだ、平兵衛殿。これから志摩まで行くところで」碧が苦笑しながら答えた。

「では、あの一件で」

「うん」

「馬がもうへとへとのようですな」

「陽のあるうちに、無理に駆けさせたから」

「しかし、かわりの馬が、今この屋敷にありません。どこかで調達してきましょう。それまで碧様たちは邸内でお休みください、お食事も用意させましょう」

「ご配慮いたみいります。しかし、馬は結構です。走ります」

 平兵衛は、えっ、という顔を一瞬したが、彼女たち三人が、忍の訓練を積んでいることは知っているので、さようですか、と返しただけだった。

 碧たちは志摩まで馬で行くことも考えたが、馬に遠駆けの準備運動もさせていなかったし、夜間の駆馳の危険さと速力の低下を考え、自らの脚で走ることとしたのだった。

 四半刻ほど休んだだけで、三人の娘は津屋敷を出た。

 門まで見送りにでた平兵衛が、

「お気をつけておゆきなされ。けっしてご無理はなさいませんように」

「うん、ありがとう」

 答えて碧は走り出した。

 三人は目立たないように、百姓娘のような野良着を身に着けていた。忍装束はひとまとめにして風呂敷でつつんで背負っている。

 誰に見られても不審がられないように考慮しての格好だった。もっとも、百姓の娘が夜間に提灯も持たずマラソン選手のような速度で街道を駆けていくのだから、目撃されれば不審がられなくても驚倒されることであろう。

 暗い街道を、ひた走りに走った。

 三人とも無言であった。

 これから何が起きるのか、何が待ち構えているのか、仲間たちの安否は……。

 娘たちの胸中には、不安ばかりが募っていくようだった。

 そうして、十六里(約六十四キロ)を二刻(四時間)で駆け抜けた。夜間の長駆であったので、予定よりも時間がかかってしまったが、昼間の走行であったなら、もう半刻ははやく走破できたであろう。


 三人は、浜に立って海を眺めた。

 まるでみずからの美しさを競いあうように、濃紺の空に星たちがきらめいている。

 空と海の間の漆黒の空間に、星々の明りに照らされて、巨大なガレオン船が、漆黒よりもさらに黒い、暗黒の威容を見せていた。

 海岸の一カ所に篝火が焚かれている。明かりに照らされて見えるむしろ小屋は、監視のためのものだろう。そっと近づくと、数人の寝息が漏れ聞こえてきた。

「まったく、呑気なもんだな」嵐が腹立たしそうに云った。

「しっ、大声ださないの。あんた、無駄に声が大きいんだから」すかさず、声を落として鶫がたしなめる。

「起こすのも申しわけない気がするわね。どこかで休息をとりましょう」碧が云うと、ふたりはうなづいた。

 そっと付近の漁師の庭先に忍びこんで勝手に井戸を使わせてもらい、汗みずくの身体を拭いた。

 野良着から忍装束に着替え、海岸線の土手下で、彼女たちは仮眠をとることにした。

 横になってはみたものの、碧は寝付けなかった。

 もとより、睡眠操作も忍の技のひとつ、いつでもどこでもすぐに眠れるように訓練をしてきている。

 それでも眠れない。

 静かにまたたく星芒を見つめていると、恭之介と過ごした日々が、次々に胸の中を駆け巡っていった。数年前の記憶が鮮明に思い出されると思うと、反対に数カ月前の出来事がずいぶんぼんやりと霞がかっていたりするのだった。

――あれからもう、どれほどの日々が流れたのかしら。

 それはほんの、ふた月ほど前のことだった。

 里の、森をちょっと入ったところに池があって、その周りはほとんど雑草ばかりで色気もなにもない池畔であったが、樹々の生い茂る中に円形に光が降りそそぐその空間は、どこか静謐な美しさがあった。

 そこで、ふたりは落ち合った。

 何を話したかまでは、あまり覚えていない。

 恭之介と碧、ふたりならんで立って、濁った池に視線を落として、四半刻ほど、空談をかわしただけだった。

 ただ最後に、

 ――この任務が終わったら、祝言をあげよう。

 と彼が云った。

 碧は、夏の名残りの焼けた肌を全身赤くして、こくりとうなずいた。

 彼は彼女を抱き寄せた。

 そうして、静かに、唇を重ねたのだった。

 熱く熱く、燃えるような口づけを。

 彼の唇の感触が、まだ碧の唇に残っているようだった。

 ――生きていて……。

 碧は星に願った。

 恭之介のいない未来など、想像できなかった。そんなまったく空虚な、無味な日々を過ごすなど、まるで悪夢の中でさまようような毎日になってしまうだろう。

 ――恭之介様、恭之介様……。

 碧の想いは、宇宙の深淵にまたたく星原のなかにやがて溶けていった。

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