過去にもぐる

「ちょっと暗いね」


 劇場から出たその足で、個室のある居酒屋にふたりで立ち寄った。もうここまでくれば、男は自分が期待するものを知っていたし、女もそれは同じはずだった。

 居酒屋の薄暗い入り口にはかすかに段差があり、女が躓きそうになって男の袖をつかんだ。


「うん。気をつけて。段差あるから」


 女から荷物を受けとると、男は自分のとなりに置いた。掘り炬燵の四人席に、向かい合って座った。女の席の脇の花瓶に活けられた花から、微かに甘い香りがした。女の香水だったかもしれない。店員の接客は柔らかく、個室の雰囲気も洒落ている。掃除はすみずみまで行き届いていて、清潔だ。甘い香り、男がこの居酒屋に入ってから、唯一気に入らない一点だった。


「なんていうか、難しかったね」

「うん、正直。お友達には悪いとは思うけど。でも、もう一度見てみたいかも」

「確かにね。もう一度見ればもう少しわかるかも」

「あるいは、ちっともわからないかも」

「いつまでもわからないものって、あるからね」


 わかりあえなさについてのみ、ふたりは完全にわかりあっていた。

 運ばれてきた料理はどれも他の居酒屋とかわりばえしないように見えた。メニューを見た時の料理名からすれば、なにか一工夫こらされているものだと思ったが、工夫が凝らされているのは実際その名前くらいのもので、想像の範囲を出るような味に出会うことはなかった。

 女は、おいしい、とつぶやいた。男もわざわざ反対することはなかった。かわり映えがしないということは、誰の口に運んでも差し支えないということだ。おしぼりでグラスの水滴を拭った。女のグラスからしたたったしずくが紙のコースターを濡らした。また甘い香りが鼻をついた。


「で、高校のサッカー部?」

「そう。あいつはヒーローだった。俺だけじゃなく、学校中のさ。今思い出してみるとって話だけどさ。当時はライバルだとか思ってたりしたけどな」

「ふーん。今の彼からは想像できないよね」


 ピンクのガーベラが首を振った気がした。酔いが回ってきた。甘い香りはますます強くなる一方で、目の前の女ではない、別の女ばかり脳裏に浮かんでは消える。

 通り過ぎただけのはずの過去がふいに、こうして今の邪魔をする。鬱陶しい。今だけの集中したいのに、失われたものばかりに気を取られる。馬鹿馬鹿しい。届かないものを求める滑稽を笑いそうになった瞬間、彼女を思い出した。



「ねえ、今日も掃除サボるの?」

「わりい。部活あるから。あとは頼むわ」

「悪いと思うならたまにはやってよ。あたしだって塾があるんだから」


 サッカー部と文芸部。組み合わせとしては異例だったこともあり、ふたりの関係はほとんど誰にも話さなかった。彼女も周囲からからかわれるのを嫌がったし、男も同じようにはやし立てられるのを嫌った。だが、数人には伝えた。そのうちひとりが、舞台に立つ彼だった。特別親しい関係だと思っていたが、彼からすれば男は友人の一人に過ぎなかったのだろうと、思い直した。当時見えなかったものが、振り返るとわかることもある。彼は特別だった。

 文芸部の彼女とは、どうしてダメになったのだろうか。肝心なことだけが思い出せずに、一緒にいった水族館で見たフンボルトペンギンの、虚な表情で立ち尽くす姿だけはっきりと覚えている。あのペンギンもきっと、今はもう生きていない。彼女は今、どうしているだろうか。



「今でもさ、俺にとってはヒーローなんだよ。あいつは」

「え、ごめん。なに怒ってるの? 私、なにか気に障ること言った?」

「え、ああ、悪い。別に怒ってないよ。なんか、ちょっと思い出しただけだよ」


 店を出た。眩しい街のネオンの向こうに星が見える。惑星か、と男は思った。ぎりぎらと激烈な光を放っているようだが、実際はただ反射しているだけなのだ。

 土曜の夜にこのまま家に帰るわけがない。暗い路地に入ると、ふらつきながら腕を組んで歩くふたりづれが目立つ。行きつく場所は同じだ。男は今日も目をそらし、現実から逃げる。肉体を重ね、つまらない現実から逃げ、美しい過去からも。

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