光の少ない場所から見ると
「朝が遅いね」
空が明るいのに、どこにも太陽がないのが不思議だった。山に隠れて見えないだけなのだが、昼と呼べるほどのものがここに訪れるのかと、ふと疑問に思った。日がのぼっても大地が十分に温もりを抱く前にすでに日が沈んでいる。とりわけ冬は、極夜のように暗い時間が続くという。
「年中そうだよ。山が朝を遮ってしまうからね」
老婆は答えた。
電球が三か所も切れている、そういって少女の父は車を出した。少女は、父がいたたまれなくなったのだとすぐに悟った。親子なのに、一番緊張しているのは父だった。
それもそうか、と思う。血の繋がらない娘と数年前まで疎遠だった母に挟まれ、気まずくないわけがない。フフッと少女から思わず笑みが漏れた。
「ハハ、なにをいきなり笑ってるんだよ」
――おばあちゃんだって笑ってるじゃん。
田舎道を歩く。舗装された道はところどころ荒れ、ひび割れや穴ぼこがあった。農道は舗装すらされていないため、おろしたばかりのスニーカーで歩くのは躊躇われた。雨はしばらく降っていない。四方を山で囲まれている恩恵もあるのだ。山に日を遮られるかわりに、日中は雲に光を奪われることが少ないのだとか。
泥濘を歩くでもないしと思い直し、知らない村の、知らない山奥の、知らない農道をひとりで歩いた。縁のない土地だ。義理の父の故郷という、自分とは無関係に思える場所だった。なのに、何度訪れても懐かしく感じられる。徐々に夜が近づき、にわかに草葉が露にしめる匂いが立った。東京のどこにもない匂いで、最初はどこから香るのかもわからなかった。
祖母の家を訪れるのも、この村に来るのも初めてではない。小学生の頃に来た時、不思議と血の繋がらないはずの老婆が近く感じられた。人がまとう空気。そうか、パパと同じだ。気がついたのは高校生になってからだった。
「よお、なにしてんだい」
「ん、歩いてる」
隣の隣に住む老翁は、祖母と同級生だという。唯一の生き残りだとも。少女には生き残りというのが同級生を意味するのか、同世代を意味するのかわからなかった。祖母の死も、その老翁の死もそう遠くないのだろう。
どうせ人は遅かれ早かれ死ぬんだから、ごたごた文句言うんじゃないよ。と、祖母の口癖を思い出す。違うよ、いつか死ぬからごたごた文句を言うんじゃないかと思ったけど、一度も言い返したことはなかった。
「どこ行くんだい」
「どこだろ、わかんない」
スニーカーが汚れていることに気がつくと、じわじわ後悔が湧いてくる。自分の足で歩いてみなければわからないと思ったから歩いた。大人に近づき、道程に見る景色の特別さを知った。誰かから聞く話には、どうでもいい景色の美しさが欠けている。秋の枯れかけた草の淡い黄色の美しさや、遠くの烏や鹿の声、冷たく乾いた風。写真に見る紅葉した樹々も美しいけれど、用意されていない自然の移ろいこそ、自分の足が見つけ出す。
自分を納得させるように言いきかせる。スニーカーは、帰ったら拭けばいいのだ。今この瞬間に見る目の前の景色は、この瞬間だけのものなのだと。
「少し行くと、稲荷さんがあるよ」
「へー、うん。ありがとう」
生き残りの息は長い。息を吸った。大学まで一時間半。どうしてそんな大学を選んでしまったのだろうという後悔。スニーカーの後悔。父はどうして帰ろうと思ったのだろうという疑問。
もう一度、少女は息を吸った。振り返って生き残りの背中を見た。そろそろ終わりだと思ったけれど、まだまだ長く続きそうだと思った。
「だだいま」
「ああ、おかえり」
老婆が出迎えた。なに、はじめて見たときと少しも変わっていない。パパもきっと、長生きするのだろう。
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