おちばをふむおとむねのむかつき

 長い県道を三キロほど焼却場の煙突に向かって走った。空に高く伸びた塔から吐きだされる煙が人々の生活の最期に行きつく場所だと思うと、女は漠然とした憂鬱を感じた。

 空は遮るものがなにひとつないと感じさせるほどに冴えている。

 煙突を過ぎた。今度は長く伸びる影の先端を目指して走る。走っているあいだだけはあらゆる日常が遠ざかる。強くなる。つまさきからあたまの天辺まで血が行きわたり、神経がするどく研ぎすまされ、己を鼓舞する熱い感覚、肉体から精神へと向かうベクトル、ふつふつ湧き立つエンドルフィン。高揚感が全身をつつんで、痛みや苦しみを和らげていく。人が死に近づく瞬間にも似たような感覚があるのではないかとぼんやり考えてみるものの、その考えすらも走るにつれて薄れていく。ありとあらゆるものが過ぎ去っていく。

 大学病院の角で左に折れ、坂をくだる手前で公園の裏手へ回った。車と人通りが減り、森閑とした秋の空気を胸一杯に吸い込んだ。すれ違ったランナーの顔をちらと盗み見ると、相手も同じタイミングでこちらを見て、目が合った。どこかで見た顔だ、と思うものの、思い出せない。ランナー同士の不思議な一体感がある。知らぬものでも挨拶することがあった。高揚感を共有する限られた同士だ。

 風が冷たくて、女の目には沁みた。

 涙が出そうになるのは風が乾いているから。胸のあたりがざわつくのは昨日飲み過ぎた日本酒のせい。葉を踏む音がすこし悲しく感じられるのは秋が深まってきた証拠。日常の変化の理由を定めて原因と結果という枠組みにおさめてしまえば、言い訳から逃げ切れると思っていた。長短問わず、足が速いことだけが誇りだった。逃げ切れないわけがない、と。走ることが喜びだと感じたころは遠い。恐怖心から逃れることが、いつのまにか理由になっていた。


「馬鹿。どこまでも追いかけてくるものから逃げ切れるって考えるほうがおかしいよ」


「なるほど」


 美大のまえの信号につかまった。足が止まった瞬間に思い出した言葉が、誰からいわれたのかは思い出せない。

 散った銀杏の葉が踏まれ、まだ散らないままの空に映える黄色とは対照的に、土に似た茶色に染まっている。葉がはらはらと落ちた。散ったばかりの葉は、やはりまだ美しかった。

 逃げ切れるわけがない。ならば、追いかけるしかない。後ろばかり見ていたからいけない。多くに人が前を走っていたのに気づかなかった。ずいぶんと長い時間がかかってしまった。

 イヤホンから聞こえてくるEDMが女を急かした。信号はまだ変わらない。車もほとんど通らないというのに、信号は長い。

 乾いた冷たい空気に、再び涙が出そうになる。胸がざわつく。冬のつんとした空気が足や指の末端から熱を奪い、感覚を奪い、長く走ってようやく血がめぐってくるのがわかる。五キロ、いや、十キロ。時々、乾燥した葉を踏み、ぱりっと軽やかな音が鳴る。美しさが損なわれる瞬間の音かもしれないと思うと、そんな一瞬で過ぎ去る軽さですら、愛おしく感じられる。

 悲しいのは、本当はいつまでも飽きが来てくれないからかもしれない。

 青になった。音楽をとめた。冷たい風がふくと、葉のこすれる音が聞こえた。すれ違ったランナーの顔を思い出した。そうか、あの人に似ているのだ。

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