さあ、書くのだ
「そろそろいかなくちゃ」
夜空で灰色に光る雲にかくれている太陽が、二人の間に時間を落とした。
太陽から月までの距離と太陽から地球までの距離はほとんど変わらない。約八分。地球と月は約一秒。些細だが重要なずれを、雲が覆いかくしている。そうした差異が、ほんのわずかでも、二人のあいだには確かに存在する。
あふれる感情におぼれて、男はすぐにでも泣きだしてしまいたかった。溢れる涙と一緒に感情を吐き出してしまえば本当に終わりになってしまうのだと思い、しずかに堪えていた。うれしいなってわらったあさの記憶が蘇る。昼、夜。いずれ一日が終わると知っていたのに、いざ終わりが来ると、男は覚悟ができなかった。
「ちゃんとカギ持って出たの?」
そんな言葉で引きとめられるわけがなかった。手持ち無沙汰で手を伸ばした先にあったペットボトルはからっぽだった。のどが渇いたわけでもないのに、声がうまく出ない。
男は、なにをしてもうまくいかないな、と思った。
「「可能なものの領域を汲みつくせ」だよ」
「えっ?」
女は人差し指をピンと立てて男に向けて、一呼吸置いてから言った。
「えっ、じゃないでしょ。あなたが教えてくれた言葉だよ」
女がそんなことを口にした意図もはっきりしないまま、ふたりは別れた。
山積みになった手紙の束は、彼女に宛てて書いて出さなかったものだった。返事が来ないことを恐れていた。
「いらないものたいせつなもの、そういう区別をつけても良い年齢だろう?」
コトン、とテーブルに置かれたグラスが鳴った。琥珀色の液体を透かした光がゆらゆらと木目の表面で揺れ、綺麗だと思った。区別などつかない。
「つけた結果だよ。それに、孤独にはとっくになれてるっての」
「そういうんじゃなくてさ、そろそろ自分の正解を決めろっていってんだよ」
「別に、こたえなんて探してないよ」
冬が降る山のなかで星や月のめぐりと眠って出さない手紙の返事を待った。
夜が深まるにつれてどこからか声が聞こえる気がした。女の声に似ている。ゆったりと水を歩くような緩慢さで響く、少し低い声だった。
眠れぬ夜に臆病者の影を追ってとらえた尻尾はつかんだ途端に消えてしまう。男はまだ決められなかった。
男はまた眠る。
そんなことの繰り返しでしか回転しない生はぎこちなく軋みながらギシギシと鈍い音で夜に鳴いている。ゆくえふめいの狂気をさがしてさまよい歩く亡霊のように、たからものを記憶の奥に隠して、日常という名で蓋をしてごまかして生きている。男は、狂気を見出したときにはおそらくたからものをなくしてしまう、という漠とした確信があった。そうして亡霊は、また亡霊としてさまよい歩く繰り返し。彼女を欠いた男の生とは、そういうものだった。
「バイクで来たの?」
「ああ、そうだよ。ここだと電車のほうが遠いから」
友人が後ろ手に閉めた戸の音がいつもより低い。人によって音程が変わるのだろうか。友人は男の隣に掛けた。
沈黙。
いくつもの重い思いを捥いで生きてきた友人にとっては、男はどうにももどかしい存在だった。ながいながいながいねむりから覚めないままの男。夢ばかり見ている男。いまだ明けない長い夢の中にいる男に「そこからなにが見える?」と問うてみる。あさまでまってみてから、肩をゆさぶる。ウサギみたいに弾んでベッドに波を起こしてみる。すると、夢がはじける音が聞こえる。
「小説、もう書いてないの?」
「ああ、まあ。正直言って小説とか、よくわからないから」
――まだ書いてるくせに。
こうして男と友人は時をいたずらにくる。だらだら時間が過ぎ、ときどき昔の記憶を引っ張り出しては、互いのずれに、生きてる今の場所が違うことを思い知らされる。
過去を変えるのは今だった。過去におもむき表面にふれるだけで、中心のない円の縁に立ってゆらめき、くずれ落ちるときのしずくをすくって未来にきらめくはずの光を探しているような不安定な心持ちだった。
今夜はまだ、流れ星は見つからない。まぼろしなんかじゃない。遠くのろうそくの火のように頼りないそれも、輝きを放っていたはずだ。
男はまださまよっていた。
ふたりだけのはなしをした。いくつもの決め事や秘め事があったはずだった。みずいろに光る冬のゆきのように澄んで冴えて春にさらさらと溶けて流れて消えてしまうくらいに頼りない過去だった。小さい頃に人混みをころばないようにそっと、それでいてふわふわとすりぬけたいと願って歩いた、あわいのままの記憶にどこか似ている気がした。振り向いてみたらかならず誰かが呼んでいるのだ。
男は部屋の姿見で自分を見て思う。その濁った瞳でなにを見ているのだ、と。同時に、友人も同じことを思う。同じ時間を生きたふたりだ。ずれても、遠くなっても、わかることだってまだあるのだ。もつれあう量子が互いを忘れられないように、異なっていても、関係しているのだった。
「……ごめん、嘘ついた。まだ書いてる」
「うん、知ってる」
☆
「あれ、さっきまで晴れてたのに」
少年がそんな言葉を口にしたのは、久々に星が見られそうだよ、などと言った手前、なにか言い訳が必要だと思ったからだ。だが、そんな必要はなかった。
「いいな、あたしもいきたい。だって、また晴れるかもしれないでしょう」
「そっか、じゃあ一緒に――」
「しーしずかに。誰かが聞いてたら、他にもいきたいって人がいるかもしれないでしょ」
美術史の授業が終わり、四号館の喫煙所でふたりは話していた。流れ星をさがしに行くというと、少女は初め、それほど興味を示さなかった。喫煙所を出てみると、雲が飛び飛びに空をかくしていた。
「コレシュスとカリロエの話。なかなか強烈だったよね」「え、なにそれ?」「えええ、授業聞いてなかったの?」「ごめん、寝てたんだ。昨日バイト遅かったし」
「そ。ねえ、ビルのむこうに見えるあれ、なんだろう?」「わかんない、飛行機雲じゃない?」「だって、変な形だよ。隕石みたい」「そうだね」「あしたもあるのかな?」「どだろ、あるといいね」「うん」
「途中から雨ふるかもね」「そうかも」「もっともっと速度をあげてよ。雨から逃げよう。とおくの雨、きのうの罪から逃げ出そう」「きのうの罪?」「相対性理論って知らない? 速く動くものの時間は、ゆっくりと進むんだよ、相対的に停止している人から見ると」「どういうこと?」「だからね、速ければ速いほど過去から遠ざかれるってことだよ」
「事故多発地点だってさ。きゃー怖い」「全然怖がってるようには聞こえないんだけど」「だって、メリーゴーラウンドみたいで楽しくなっちゃうんだもん」「やっぱ、楽しんでんじゃん」「エヘヘ、ばれたか。死が近いからかな。いつか死ぬかもって思うとさ、やっぱ今を楽しまなきゃ損だって気がするじゃない」
「もっと近くによってみて」「うん」「ほら、もっと」「うん、イテッ」「アハハハハ、ひっかかったー」「ちょっとふざけすぎでしょう」「君ってなんか人間っぽいよね」「だって人間だもの」「あはは、みつを」
高速で二時間ほど走れば辿り着く。大学を出た時と山の天気はまるで違っていた。雲一つない夜空に無数の穴がうがたれ、世界のそとから光が漏れ出している。
なにもない世界は暗闇ではない。光にあふれている。男は何故かそう思っていた。もっとふかい藍の奥に、一枚のぞいた向こうの空、きっとそれは空そのものが光を放つまぶしい世界なのだと。
――君の目で見る空は何色?
横の女の瞳を覗き込んだ。空よりずっと黒い。
「ちょっと寒いね」
「うん。カーディガン一枚分くらい熱が足りないな」
「絶妙だね」
少年は一瞬ためらってから、着ていたカーディガンを脱いで渡した。
「アハハ、ありがとう。どれだけのぼったの?」
「千メートルくらいだと思うけど」
「それだけここは空に近いってことだね」
「まあそうなるね」
どこからか虫の音が聞こえた。北極星が光っている。ライトのように、いつだってそこについていれば迷わない。その光をじっと見ているうちに、いっそうと鳴き声が高まっていく。
「そこにいるのは誰?」
女が問うた。
「なにそれ、きみがわるいな」
「僕だよとか、俺だよとか、それだけ言ってくれればいいの」
「わかったよ」
満天の星空は数十分後に曇天に変わった。かみさまのきまぐれ。今日も星の声は女に届けられなかった。正確には、星に託した男の言葉。回りくどいことをしているうちに心変わりしたらどうするんだよ、と友人は言う。それはそうだけど、なにかきっかけが欲しいじゃないか、と男は思う。
「サナギタケは夢を見る」
「え?」
「サナギタケって夢を見るんだよ。所詮は菌のくせに」
「なんの話?」
「冬虫夏草の一種でね、昆虫の蛹とかに寄生するの。そこには魂があるでしょう、魂があるのなら夢を見るでしょう、特に蛹は。だって、ずっと眠っているんだから」
☆
男は記憶の糸をたどりながら、まだそこにあるものをたぐり寄せようとした。大学のらくがきだらけの机にあらたならくがきを加えた。あかい葉かぞえて年齢の数だけ四号館の三階から撒きちらした。うつろなあいの話に興じた。手すりをうつあめの音を聞いて窓からそっと手を出して、引き戻した手を見て爪のあいだが黒くないと彼女が言った。お金ないから散歩しようよというと、そんな誘い文句あるかなといって彼女は笑った。彼女が、彼女が、彼女が、彼女が。
「そんな言い訳やめれば?」
日曜朝東立面図。一緒に暮らし始め、生活も順調だった。だが、同時に息苦しさを感じた。自由を謳歌したいというもうひとりの自分が、服従を誓うべきかともうひとりの自分に問いかけた。
――怒りにふるえる君の手を、僕は。ハハ、つかめなかった。
玄関のそこだけ少しくらい。男は、女の出ていくうしろ姿に母を重ねた。同時に、ふがいない父の姿を自分に重ねた。
「鳶が鷹を生んだよ」
冗談で神童と言われる程度に男は利口だった。言葉を覚えるのも、歩き始めるのも、おむつを外すのも乳離れするのもひとりで歯を磨けるようになるのも、男は周囲よりも早かった。
「所詮、とんびの子はとんびね」
母が出ていく時に言った言葉。子供ながらに男は、それを言うなら蛙の子は蛙だろう、と思ったのをよく覚えている。
あるけばそのあしあとは れきしとほしとし あなたをかたちづくるもの
上とか下とかみぎひだり きょうはちょっとだけ そこに手はとどかない
彼女の詩だ。
――なにもかもをないがしろにしても、それだけはつかむべきだったんだ。
男は扉を開いた。走った。次の電車まであと八分。もう遅いかもしれない。まだ間に合うかもしれない。どうだろう。八分。そっか、太陽と地球の距離だ。
ふと仰いだ空には鈍色の雲。そこに太陽はなかった。ペンと紙を手に、記憶と想像のあわいを泳ぐための準備体操を始めた。さあ、書くのだ。
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