光る藍色だけが夜だったのに
「もう終わったんですか? だってさ。あの人、心底驚いてたよ」
自信ありげに話して見せることこそ、営業の本領だと男は思っていた。肩を高く、胸を張り、脂下がるほど煙草を傾けることこそ、営業だ、と。
頼まれた資料作りを一時間で仕上げた。今日中で良い、と言われた仕事だ。
喫煙所のアイドルと喫煙者が冗談交じりで呼んでいたその女は、すごーい、とお決まりの反応を見せた。
男も女も、正解を誤らず、見事に演じている。ちやほやされるのも悪い気はしない。それがたとえ嘘でも、自分の力になるなら遠慮せずに借りてしまえばいいのだ、男は人との関係を自分の利害の延長でしか考えなかった。
「付き合いにどれだけエネルギーを割けるか。それも大切だな」
入社一年目、先輩がそう言ったのは、暗に自分の飲みに付き合えという意味だった。一年でしっかりと鍛えられた。飲んでなくても飲んでいるように見せる術。楽しくなくても楽しんでいるように見せる術。仕事とは関係ないことで上手に恩に着せる術。そのうえで、借りは一切つくらない。
男は一年間で学んだ処世術で厳しい営業の世界を生き抜いてきた。二十九歳。そろそろ大きな成果が欲しいところだった。
新宿で飲み、終電二つ前の電車に乗った。乗り換えまで眠って体力を温存する。金曜夜の騒々しく、酒のにおいのただよう車内でこうして眠ることだって、大切な仕事の一部だ。十分な体力と気力があってこそ、人を魅力的に見せる。元気に溌剌とした声でまずは挨拶から。朝は快く始めなければ、成績も伴わない。同じルーティーンを崩さずに過ごす。習慣と継続、そしてなにより気持ちが大切だ。
駅に到着したらぴったり目が覚める様にアラームをセット。目を覚まし、乗り換える。またアラームをセット。そうしておけば、休息をとりながらも、同時に移動が可能だった。
電車の中でだけは安心して眠れる気がした。男の底に眠ったままの倦怠感がうっすらと顔をのぞかせる。嫌味なく、おもむろにこちらを見て、静かに問いかける。お前はどこに向かっているのだ。ふふっ、と目をつむりながら男は答える。俺にだってわからない。と。
――海?
男は慌てておりた。
鼻先を掠める磯の香りに、乗り過ごしたことに気がついた。久しぶりに嗅いだにおいのせいか、唐突に吐き気がこみあげた。
トイレの個室に駆け込み、今日、正確には昨日の夜に飲みこんだものをすべて吐きだした。
初めての失敗は、予想に反して気持ち良かった。しばらく便座に寄りかかるようにして吐いていた。苦しいはずなのに、感じたことのない解放感があった。
個室のドアを叩く音がした。駅員に駅から追い出された。
タクシーで帰るべきか男は迷う。明日というべきか、今日は土曜、だが仕事がある。駅前のロータリーには、タクシーはとまっていなかった。
「貝殻から、波の音が聞こえるんだよ」
同級生の父親が買ってきたみやげに、皆で耳をあてた。目をつむる。ボーと鳴る低い音は、波の音というよりは、鯨かイルカが海で鳴いているみたいだと思った。
海は一、二度、行ったことがあるだけで、どこか遠くの国のようだった。懐かしく思うのが不思議だった。男だけじゃなく、誰もが聞いたことがあると言った。海に行ったことのないものもいた。
「海の声だよ。海なし県で聞くには、貝殻しかないから」
高校のころに初めてできた彼女が言っていた。山の中に住んでいるから、海に憧れるのだ、と。海が遠いから。たやすく手が届くものではないからだと。
都心に出てはじめに男が気がついたのは、星が遠くなったことだった。田舎よりもずっと明るい街では、時々惑星がビルの隙間から見えるくらいだ。海は近くなった。電車で三十分も揺られれば、そこには太平洋が広がっている。あの頃の憧れだけが漠然とした残像を見せる。働くうち、いつのまにか憧れは消えていた。
「これでさよならだね。頑張ってね」
同窓会や地元の結婚式に出る暇などない。
がむしゃらに働いて、上京したことの意味を必死に見つけようとしていた。憧れていたはずだった。眠らぬ街の夜のざわめきに、艶やかなLEDの光に、夢を見る人々の輝く瞳に。
彼女の言っていたことを心に留めておくべきだったと、男は後悔した。
浜辺には、解体途中の海の家が並び、隙間から海がのぞいている。その間を抜け、海へ出た。
本物の海の音が聞こえた。海の家が砂浜の半分ほどを占めるせいで、すぐそこに海があった。
十数歩で届く。浜に寄る波が微かに青く光るような気がした。近づいていく。砂浜が湿っている。波の届かない場所に腰を下ろした。
山で見る星に似た騒々しさだ。本物の星は遠い。この海の上に広がる空は、あの頃の空につながっているのだろうか。疑うほどに遠い空に、男はもう帰ることができない場所まで来たのではないかと不安になった。
「飲むか?」
男はスーツのまま浜に座っていた。どこからかあらわれた中年が、ビールを差し出した。
男は首を振った。
「いえ、もう終わりにします」
海の音は耳に心地よかった。
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