変わらない変われない億劫で臆病で

「待ってよ」


 少女が少年の腕をつかんだ。ひとまわりからだの大きな少女は、少年よりも力が強い。目に涙を浮かべながら逃げ出そうとするものの、少女は決して少年の好きなようにはさせない。


「ねえ、逃げないでよ」


 少女は涙目になりながら、自らの体重を少年の片腕に預けきっていた。少年は我慢がならなかった。大切なものを失う悲しみを真正面からすべて受け止めるには、少年はまだあまりに幼すぎたのだ。


「どうしてなにも言ってくれないの?」


 言葉がなかった。昨日と今日、今日と明日は滑らかにつながり続いていくものと信じていたのに、今この瞬間にぷつんと途切れてしまう。少年にとってはじめての経験だったのだ。




『やりたくないから逃げてるだけでしょ』


 女は冷たく言い放った。図星だった。遠い過去の記憶が蘇るのは、女があの少女にどこか似ていたからかもしれない。

 休憩室に入る。冷蔵庫に入れてあったはずのペットボトルはいつのまにか処分されていた。男は仕方なくエレベーターホールの自動販売機で水を買う。

 ずっと前から体調の異変には気づいていたため、カフェインを控えていた。どれほど意味があるともわからず。病院にはいかなかった。決定がくだされることが怖い。生活がある日を境に急変するのが怖い。

 ならば、知らないふりをしてそのまま視線を逸らし続ければいいのだ。


『やりたいことから逃げてるだけでしょ』


 さらに女は追い打ちをかける。少女との記憶は曖昧だ。女と重ねて思い出すため、遠い過去とついこの間のことが混淆している。不思議な感覚だった。

 飲み物を買ってデスクに戻ると、新しく入社した六つ下の女性社員が話しかけてきた。毎年こうして、似たようなことの繰りかえしとなる。控えめにいっても男は眉目秀麗、人目を引かずにはいられない。冷たい秋風が吹き始めるころに、ようやく春の熱が冷める。誰のものにもならないのだと皆はさとる。男は知っていたからこそ冷めきっている。女たちはクールだという。それでいて、優しい、と。

 男はそんなやりとりになかば悦に入りながらも、常に倦怠を感じずにはいられなかった。それを破ろうとする女を受け入れたいと望み、そして、恐れていた。




「待ってって。あたしはただ話したいだけだから」


 少女はすがるように両手で少年のトレーナの袖をつかみ、少年はひきずるように歩こうとする。


 ――どうせ僕には何もできない。


「待ってって」


 甲高い声が、誰もいない廊下にひびきわたった。一番遠い窓が開いている。中庭から声が聞こえる。そのどれもが少女のように甲高いのに、少女の声だけがひときわ高く震えている。

 冬のつんとした空気が、半ズボンのしたのあらわになった肌をぴりぴりと焼いている。寒さなんて感じたことはなかったはずなのに、あのときだけは、冬がつらいと思った。

 少年は背を向けていた。やがて少女の腕から力が失われるのを感じた。ぽとりと腕が落ちた瞬間、少年は走り出した。


 ——あの日から、なにもかもから逃げているのだ。




 やるべき仕事は山ほどある。

 男はデスクのひきだしからお菓子を取り出した。昼食を買う時間もないときは、こうして置き菓子ですますのが習慣化していた。


「よくないですよ、お菓子ばっかり」


「いいんです。僕はこれで」


 過去や今と向き合う以上に、仕事に意識を向けてなにもかもをなおざりにしてしまえば楽だった。女のことも、少女のことも思い出さずに済む。食事に出れば、誰かにつかまって話しかけられる。

 億劫だ。なにもかもが億劫だ。


『またそうやって。逃げたってなにも変わらないのに』

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