空白を埋めるための空白
「うん、平気だよ。体調悪いならしかたないし」
電話を切り、女はベッドの縁から立ち上がると、細い廊下を兼ねたキッチンへと歩く。たった数歩が重い。冷蔵庫を開けた。昨日買ったゼリーがひとつ余っていると思ったが、半端な量のマヨネーズやケチャップの調味料と、ほとんど空の水のペットボトルだけだった。
ぽっかり空いた淋しさを埋める手段を知らない。胃を満たせば心も満たされるのだろうかと思い、いたずらに食べてみたこともあった。からだが重くなるばかりで、満たされることはなかった。
もう二週間会っていない。
恋愛において距離感は大切だ。執着や束縛を感じさせないために、いつだって気軽な風を装った。かといって、連絡を取らなければ次第に距離は遠ざかっていく。愛や恋と呼ばれる関係を継続するには、すべからくからだを重ねるべきだとも思う。適切な距離を保ち続ければ簡単なことのはずだった。
「ねえ、今晩ご飯行かない?」
女は気づくと、メッセージを送っていた。画面がちかちか点滅している気がする。スマートフォンの画面の周波数が目測で感じられるほど遅いはずがなく、毎日のように夜遅くまで暗い部屋でゲームをしているからだ。
画面上で銃弾に倒れる人々のグラフィックスは極限までリアルに近づいてきているはずなのに、どこかぎこちなかった。痛みや苦しみがない。壁に向かってただ地団駄踏むような不気味な存在すら、その空間では違和感がなく溶け込んでしまう。
その世界が普通の地平が現実と地続きでないことが、女にとってはやるせない暇を消すための数少ない手段となるのだった
「いいよー」
いたって軽い返事が届いた。
マッチングアプリで出会ったその男は、顔が少し彼に似ていた。もう一つの暇を消す手段もまた、女にはリアルの欠けたものだった。
待ち合わせた商業ビルの、健康志向の韓国料理屋に入った。彼とは絶対に行かない店だ。キムチもナムルもプルコギも、にんにくですらもたっぷり食べた。醤油漬けの茶色い球根を口に含むと、香ばしさがが鼻の奥に広がった。臭い、けど、美味しい。
「平日に呼び出すなんて珍しいね」
「うん、まあね。彼と微妙で」
「俺だったら絶対やだな、こんな風に遊ばれてたら」
女の胸にその言葉が刺さる。その通りだ、と思いながらも、他になす術がない。
「確かにね。でも、二週間も会ってない」
男は無造作にジョッキをあおると、一口にビールを飲み干した。テーブルを水滴が濡らすのを、男はおしぼりで丁寧に拭き取った。
「几帳面だよね、無駄に」
「無駄に、とは失礼な。こういうのが夜の営みに結びつくのだよ」
「ふーん」
男は丁寧だった。彼のように急ぐことはなかった。急かされるのも悪くはないが、つま先から頭のてっぺんまで触れる男の指はやわらかく、安堵すら感じた。彼の無骨な指とはことなり、繊細で、優しかった。首筋や背中を滑りながら、静かにたかぶっていく感覚が、彼との交わりでは感じることのない喜びを感じさせた。だがそれは、ただそれだけだった。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
ホテルを出てすぐに別れた。
女は男に対して恋愛感情を持っていないし、男ももちろんそんなものは皆無だ。互いのからだを重ねる喜びだけを共有していた。
どんな仕事をして、どんな友人や知人を持ち、どんな生活を送っているのかすら知らない。女は恋人の話をするが、男はしなかった。だが、男に恋人がいることくらい、触れ合えばたやすくわかるものだ。
繁華街の人混みを抜けて、駅につながる地下の階段をおりた。エスカレーターが故障していて、長い階段を自分の足でおりなければならなかった。すれ違う人の多くは地上に向かって必死に足を運んでいる。おりるだけなのに、女の足は重い。
暇を消化した。その瞬間から次の暇が訪れる。明日も仕事がある。仕事をするために生きているのではなく、生きるために仕事をしているのだと自分に言い聞かせながら、惰性で業務をこなす毎日は、ありがたく感じられることもある。意味とは無関係に空白が埋まる。空白がお金に置き換わる、とも言える。お金はこうして、人と会うのに使える。またそうして空白を消化することができ、人生は螺旋階段のように循環しながら確実に死に近づいていくのだ。母の死を思い出す。螺旋階段から脱落した彼女は惨めに、苦悩に満ちた表情で空白を埋めた。終焉を自ら決めるのは懸命かも知れない。
電車に乗った。都内でも一際人の集まる駅だ。ホームに引かれた乗車位置を無視した列ともいえぬような人のかたまりが、ちらほらと見られた。電車が到着すると、案外それらの人々は規則正しく車内へと吸い込まれ、女もそこに混じった。
酔いは醒め、周囲がよく見渡せるようになると、ぎこちない動きの幾人もの酔客が臭い息を散らしていた。汚い。目に映るものすべてが汚れている。自分も自分以外の多くの人も、きっと彼だって同じだ。人間は、誰もが薄ら汚れているのだ。
夜の底に群青色を流し込んだみたいに静かだった。等間隔に照るはずの街灯のひとつが消えていた。住宅街にぽかんとあいた駐車場の目の前だった。まっすぐ歩いてちょうどそのあたりまでいくと、ようやく底に辿り着いたのだと思った。空を見上げると、朧な月が、弱々しく輝いていた。
「もう、終わりにしよっか」
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