遠くに見える絵
不思議な建物だった。白い円盤が地面に斜めに地面に突き刺さって、天井にぽっかり丸い穴が空いている。穴からは絶えず光と風がさしこみ、空間に連続性を持たせる。ここで終わりではなく、ここが始まりなのだと訴えるようだった。
男は靴を脱いだ。足の裏にひんやりとした感触が伝わる。歩くと、地面に自分が吸収される気さえする。足音が聞こえない。色彩の欠けた静謐な空間では、私という概念が損なわれる。
穴から溢れる水が、引き延ばされた時間の断面を撫でるようにゆっくりと流れ落ちる。エントロピーの不可逆的変化が小さくなるように、精緻に設計されている。その空間には、瞬間が欠けていた。
男は風を目でとらえ、音を嗅ぎ、色を味わった。
ひとつの感覚が別の感覚を侵食し合い、境界は薄い
水と同じリズムで横隔膜が上下し、肺胞に溜まった酸素が壁の僅かな隙間をすり抜け全身を巡って炭素と結合し、二酸化炭素になって気管を通じて口から吐きだされる。
男はばらばらになる。ばらばらが一つになる。懐かしい、と男は思った。同じ感覚を、以前も味わったことがあった。
「絵に集中したいんだ」
「そっか。うん、良いと思う」
グループ展は盛況だった。女の知名度もさることながら、主催の画家が界隈ではよく知られた作家だということもあり、人が多く集まったのだ。
大きな商業施設のフードコートは、昼前なのに案外人はまばらだった。休憩に出てきた女の提案を、男はあっさりと受け入れた。
夏に出した展覧会に入選し、二百万円の賞金を得た女とでは釣り合いが取れない、そう思った。
授業やバイトのない時間に小説を書き続けているものの、出版に漕ぎ着けたことはなかったし、コンペで三次以上に進んだこともなかった。作家を自称するにはなんの業績もなく、しいていうならば、一度詩のコンペで五千円の商品券を手にしたぐらいだった。
男は過去にも女の作品を見た。絵は女そのものだった。ふんわりとした春の芽吹き、ぬくい風と日、みずみずしい葉におちる光。絵に触れたいと思ったのは、人生ではじめての経験だった。
女は立ち上がった。
吹き抜けになったフードコートに、高いガラスの天井から夏の強い日がさし、女の短い髪を照らした。緑の黒髪が、艶やかだった。
「来年の個展のために描こうと思ってる」
女は日の光と生きているのだ、男はそう思うと、どうしたって手の届く相手ではないのだと諦めた。諦念は後ろ盾となるはずなのに、のどにつかえた言葉は、なかなか出ない。届かなくても、もがく。男の諦念はどこか歪んでいた。
「僕も集中して書いてみるよ。それじゃ」
またね、と言って二人は別れた。
「っていう、ことの次第なんです。それ以来、会ってないんですけどね」
「で、私のところにきたの?」
女は怒る様子も見せずに淡々と答えた。
「違うんです。ただ誰かに聞いてもらいたかっただけで」
男もまた、無邪気に弱さをさらけだした。
目を覚ました頃には既に日が暮れていた。そこにいたはずの女はすでにおらず、遠い記憶のなかにある一枚の絵が、つと思いだされた。緑の葉のしげる草原に、波のように銀色の光が走っていた。
風が冷たくなって気がついた。長く眠っていた。洗濯物が心配になって慌ててベランダに出るが、とうに取り込んでいたことを思い出した。
にわかに気温がさがり、空にはいつのまにか橙に染まる雲が浮かんでいる。時間が少ない。歪んだ諦念が今でもこうして悪さをする。それすらも、男は諦めていた。
女が帰るまでに、晩ご飯の支度をしなければならない。男は所帯じみた自分を恥じながらも、やはりここでも、諦めという言葉が最初に頭に浮かぶのだった。
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