あいまいな記憶の隙をいつまでも泳いでいる

「キャハハハハ」


 女はなにが面白いのかもわからずに笑った。たいして面白くなくても笑うことがすっかり板についていた。男と話すときは、店の客と接するかのように手際よく相手を気持ちよくする術を講じた。

 扱いは心得ている。自尊心をちょっとくすぐってやればいいのだ。

 楽しく過ごしているとアピールして、適当に相槌を打ち、時々はと驚いてやれば、それだけで満足してしまう。彼は単純だ。容易にコントロールできるとなれば、日常を乱されることはない。


 ――はは、なにしてんだろ、あたし。



「俺、もう無理だよ。俺、あんたの飾りだろ。飾りじゃなくて、俺はあんたの彼氏になりたかったんだよ」


 かすかにあどけなさの残る精悍な顔立ちは、あっさり消えた。凛々しい声だけが耳の奥に残り、頭を重たくする。

 アラームを一度とめたところまでは覚えていた。外はすでに薄暗い。時間を見ようとスマホに手を伸ばしかけ、やめた。知りたくない。知ったところで、何の意味があるのだ。暗くなったら起き上がればいい。


 ――隣に知らない男がいないだけましだよ。


「おーい、アイス食うか?」


 しゃがれた声が遠くから聞こえた。現実だ。


「いー、いらない」


 夜が訪れた。

 同居人、といっても八十過ぎの年金暮らしの老人だった。女にとってはほとんど他人同然の遠縁の男は、なぜか一緒に暮らすことをゆるした。

 近くのコンビニに行くのに、少しの間留守にしていたらしい。


 ――孤独に耐え切れなかったんだろう。


 家賃は払っていない。食事も冷蔵庫内のものを勝手に食べた。こうして時々暑い日にはアイスを買ってくる。むげに断ったところで、文句ひとつ言わない。からだを求めたり、金をせびることもない——むしろそれは女の方だった。


 ――ある意味、理想の男かもね。



「だって俺は、あんたのことが好きだったんだ」


 女は思い出すたび胸を締めつけられた。時を経るにつれて薄まるどころか、現在と重なり合って重みを増していく。

 高校の帰り道。街道脇の路地を抜けた先の小さな公園の、ブランコの後ろのベンチ。そこが定位置だった。日常の、どこにでもあるような公園が、確かな記憶の写像となって記憶を想起する。ままならない。


 煙草の灰は落ちる寸前までバランスを保ち続け、ついにはベッドに落ちた。女はそれを素手で払って床に落とすと、マットレスからこまかな埃が立ち、枕元のライトの光が照らし出された。


 ——綺麗だな。


 灰も埃も光に照らされれば、暗い部屋できらきらと輝く。頼りない公園の灯りのしたで、少年の瞳に自分はどのように映じていただろうか。


 ベッドに入る時に脱いだTシャツを、そのまま着た。下はズボンもスカートも穿かず、派手な赤の下着だ。女にとっては特別な意味はないが、いくらか同居人の興味を引くだろうと思った。

 老人はキッチンに立ち、几帳面に皿にアイスを盛っていた。いらないとは言ったが、冷房もついていない暑い部屋に入ってみると、急に甘いものが欲しくなった。温度計は三十七度をさしていた。


「やっぱ食べる」


「ああ」


 老人はすでに女の分も用意していた。

 カウンター越しに、青いガラスの皿に盛られたバニラアイスが差し出された。いかにも涼しげな演出だった。


「ありがと」


 テーブルに皿を置き、カーテンの隙間から外を覗いた。三十手前くらいの端正な顔立ちの男が、中学生の三人連れを抜くか抜くまいか迷うようにふらついていた。手には、ネギのはみ出たビニール袋がさがっている。


 ――今頃、あのくらいの年齢だったのかな。


 少年の姿がよみがえる。

 女にとって理想の男だった。優しいという言葉が似合う程度に、芯の強さを持っていた。また、頭も切れる。自分の行為と結果をよくよく考えた上で、慎重に選んだ言葉をたどたどしくも伝える。そして、顔が良い。


「じいさん、死ぬよ」


 テーブルに置かれたエアコンのリモコンを手に取った。居候の女としては、彼に死なれては困る。設定を二十五度まで下げた。

 老人は女の言葉に曖昧に返事をし、女の隣に座った。会社に行くでもないのに、老人は綺麗に髭を剃っている。若い頃は、綺麗な顔をしていたのだろうかと思う。


 特に理由もなく、あの少年との思い出を、目の前の男に話したくなった。

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