あまいあいまいなきおく
店の前を通るといつも甘い香りがした。パン屋、ケーキ屋、カフェ、そして花屋。女の子の憧れる店はどこも、幸福な香りがする。蜜に誘われる蜂や蝶のように、宙を飛ぶうち気がつけばいつのまにか甘みにとっぷりと浸っている。
女はその花屋を訪れるのははじめてだった。いらっしゃいませ、と青年の声が風のように耳に響いた。花の香りを邪魔しない、ざらつきのない声だった。見た目は花屋に似合わない、運動部の学生のような焼けた肌と、大きな体躯に、頭の横と襟足を刈り上げたツーブロックだが、どこか樹木のように落ち着きのある、置き物かなにかに見えた。
軒先に並ぶ季節の花から一輪選び取ると、女は青年にそれを差し出した。
「これを中心に、なにか作ってくださる?」
「かしこまりました。プレゼントでよろしいですか?」
「……ええ、そうね」
「失礼ですが、ご予算はいかほどで?」
「三千円くらいでお願い」
「それなりに大きなものになりますが」
「そう。じゃあ少し小さめで、値段はそれ以下ならいくらでもかまわないわ」
「かしこまりました。受け取りのは後ほどでよろしいですか?」
「そうね。どのくらいかかる?」
「十分から十五分ほどいただきます」
「じゃあ、二十分後にまた来るわ」
「かしこまりました」
青年は事務的に記録を取ると、その控えを女に渡した。
女は店を出た。斜向かいにある雑貨屋に入り、あつらえむきの花瓶を探した。赤のさした切り子ガラスを見つけた。それにぴったりの大きさの籐籠を見つけた。重ねると、切り子ガラスの縁がわずかにのぞいて見え、その赤が綺麗だと思った。その二つを買って時計を見ると、まだ時間にはなっていなかった。
近くにカフェやパン屋、ケーキ屋もある。カフェで時間を潰すには、短すぎるし、夜の食事は別で用意があった。となれば選択肢は一つ、ケーキ屋という結論に至る。信号を渡り、坂道を少しくだってから路地に入る。店の前に小さなもみの木があり、冬になるとそれが飾り立てられる。今はハロウィンに向けてジャックオーランタンや骸骨などが店先に置かれているものの、もみの木はその端にぽつんと立つだけだった。
女はふと、さっきの青年を思い出した。飾りのように佇み、客の要望に対して淡白に応じ、そこにいるのにいないような雰囲気だった。店の甘い香りに溶けて、存在そのものが店と一つになっている。数多の植物と同じように、そこに根を生やしてしまったかのような。
それでも、もみの木は大きな鉢植えだった。動かそうとすれば動かないものではない。青年は自分の意思であの場所にいるはずだが、もみの木は誰かに動かされなければずっとその場所にいるしかない。
女はケーキ屋に入った。バターの香りを感じただけで、幼少期に食べたケーキの味が口のなかに広がる気がした。ケーキを食べるのではなく、ひとりではなかったあの頃の記憶を食べるのだ。それは、甘いあまい、ねっとりとした、少し重たい香りのなかを、もたもたと歩くような感覚だった。母か父の手を握っていた。あるいはその両方だったかもしれない。あるいは兄、あるいは姉のものだったかもしれない。祖父母だった、ということもあるだろう。過去が一つに収束しないのは記憶の不確かさの証明になるかもしれないが、不確かさは価値の良し悪しとは無関係だ。その香りだけで何度だって、女は過去と繋がれるのだ。
見た目の華やかなベリータルトと、いちご一つのシンプルなショートケーキを買った。女は胸の高鳴り感じた。ケーキ、花、それを入れるための花瓶と籐籠。それだけで幸福になれるのだから、我ながら安上がりな女だ、と女は思った。
浮き立つ心とは対照的に、女の足取りはゆったりとしていた。路地を抜け、大通りに並ぶ店を外から眺めながらゆっくりと花屋に近づいていく。一歩、また一歩と近づくたびに、鼓動が高まっていくのがわかる。その音を聞きながら、時々は立ち止まって、胸いっぱいに街の空気を吸い込む。甘い。曖昧な記憶が風船みたいにふくらんでいく。いつか弾けて消える。そう知っていても、何度でも味わいたくなる懐かしい記憶だった。その記憶のためなら、女はこうして自らのために花を買うことも、ケーキを買うことも、虚しいとは思わない。そう決めた。
女は花屋に戻った。もみの木が微笑みを浮かべて、小さなブーケを差し出した。その花を顔に寄せ、香りを嗅いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます