思いの丈
トモキの恋心を聞いて私が書いた小説は、主人公の男とその恋人が別れるところから始まる。
主人公は相手のことを忘れられないまま、新しい恋人もできずに2年が経っていた。
そんなある日、主人公の元に元恋人の母から娘の行方を尋ねる連絡がくる。
元恋人の母は「娘はずっとあなたと付き合っていると言っていた、いなくなった日もあなたに会いにいくと言って出ていった」と告げた。
主人公は困惑しながらも彼女の母に頼まれるまま、元恋人探しを始めることになる。
ジャンルとしては、恋愛よりもミステリーかもしれない。しかし、私の思いは込めた。伝わるはずだし、楽しんでもらえると思っている。
読みはじめてから、1時間半ほど、真剣な表情で小説と向き合っているトモキを横目で見ながら、持ってきていたパソコンで仕事を進める。一週間以上あの小説にかかり切りになっていたので、他の仕事が少々滞っていた。
リュウタはキッチンで何やら作っているようで、リュウタが引越しをしたときに、他の家具や家電を中古にしてまでこだわって購入していたオーブンから甘い香りがしてきている。クッキーか、スコーンか。私も絶対貰おうと心に決める。
依頼が来ていたエッセイを書き終えて、時間を確認すると、トモキが読みはじめてから3時間が経っていた。トモキの持つバインダーのページはもう残り少なくなっていて、リュウタの方を見ると、温かい飲み物を入れるつもりなのかお湯を沸かしはじめていた。このあたり、リュウタは気が利く。
「今、なにがあるの?」
「コーヒーか紅茶。あとクッキー食べるか?」
「クッキー、いいわね。飲み物はコーヒーがいい」
「カフェオレにするか?」
「うん」
バインダーの閉まる軽いプラスチックの当たる音と、大量の紙の位置が変わる鈍い音が、トモキが読み終えたことを告げる。
「お待たせしました」
「いーえ、リュウタがコーヒーか紅茶いれてくれるって、何がいい?」
顔を上げたトモキにそう声をかける。トモキは礼を言って、コーヒーで、と答えた。
トモキがソファーから立ち上がり、軽くストレッチをしている。私もテーブルのパソコンを片付けると、ぐっと伸びをした。体が解れていく感覚に、ふうと息をつく。思ったより、体が固まっていたようだ。
リュウタがコーヒーと焼きたてのクッキーを並べていく。全員がテーブルの周りに腰を下ろす。
自然とトモキに視線を向けてしまう。いつも感じるが、編集に読んでもらったあと以上の緊張を感じてすこしおかしくなってしまった。
トモキは一口、コーヒーを飲んで、何かを考えるように目をつぶった。
時間で言えば、ほんの数十秒だが、とてつもなく長く感じる。
トモキが小さくうなって、目を開けた。
「どうやって、怒ろうかなって思ってたんです」
トモキの表情はとても穏やかだ。頷く私に、トモキは続ける。
「ありがとうございます。書いてくれて」
トモキの目が細められた。過去に何度も見た、恋心が消えた目だ。
トモキが感想を話しだす。それを頷きながら聞いて、メモを取っていく。
「これで吹っ切れると思います」
トモキはそう言って、クッキーを口のなかに放り込んだ。
「そう、よかったわ」
私は笑う。トモキもリュウタも笑っていた。
水にインクを垂らしたように、少しづつ、私のなかに後悔が広がる。
あぁ、私は、また、妹に向けられた恋心を消してしまったのか。
「リュウタさん、このクッキーおいしいですね。今度作り方教えてください。お菓子男子モテそう」
リュウタと談笑するトモキの表情には、先日見た苦しそうな色はもうどこにも見当たらない。
前に進むことはそういうことだ。いつまでも抱えている叶わない恋心は危険で、苦しいものだ。
時間の経過で消えていくはずのものを、こうしてあっという間に消してしまうことを、私はいつも後悔する。
勝手に取り上げて、勝手に燃やして、勝手に後悔して。あまりにも自分勝手だと私自身あきれているので、誰にも言ったことはない。
消えていくものを形に残すことで、本人の中からは綺麗に消えてしまう。私のしていることは、盗賊のようなものだろう。
妹にあったかもしれない未来。それは私の手で消えていく。
私は、カフェオレを飲みながら、トモキの笑顔を見て、今はもうありえない未来に思いをはせていた。
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