第8話 醒めない悪夢の続きを
軽く鍋一杯分の料理を食い終わった我は、後片付けをするリサに寝床を聞いたが……なんとこの居間にあるソファーとやらに寝ろ、と言われた。客であり、王でもある我にその待遇は遺憾であるとしばらく言い争いをしたが、よくよく考えれば我は三日に一晩寝れれば充分である。
その上、口論している内に段々面倒になってきたのもあるが、どうにも我が上の階へ向かうことに対してのリサの強い忌避感が透けて見えていた。
もし眠るのであれば天窓つきの赤いベッドに大の字になって眠りたいところであるが……どうにもそうはいかないようだ。今晩は寝ずにいることとしよう。
そうと決まれば女二人の行動は早く、いつの間にやら身嗜みを整えて上の階にいってしまった。我はそうでもないが、やはり人間の二人には眠気という足枷があったのやもしれぬ。時計を見れば朝方4時近い。あの二人がいつ起きるかにもよるが、恐らく朝まで暇である。
「……ふむ、中々悪くないが……少々小さいな」
取り敢えず一人ソファーに腰掛けてみる。軽く木材が軋むような音を立てて、我の五体が布に沈んだ。玉座には当然及ばないが木の椅子よりは随分とマシな座り心地である。……が、言葉通り小さい。いや、どちらかと言えば我の体が大きいのだろうな。
我はそこらの人間と比べれば随分と立派な体格をしているので、恐らく二人掛けのソファーは少し小さい。そんなソファーに背を預けて天井を眺めると、我はようやく自分の立場が安定した事を感じた。
神々との熾烈な最終決戦の最中に異世界の砂漠へと無力化されて転移され、ゴブリンに敗れ、人間に助けられ、初めて人間の町に入って、良くもわからぬ奴の家に泊まっている。そうして今、ようやく落ち着ける時間が持てたのだ。
居心地が悪いのはいただけぬが、砂漠を引き摺られたり、路上で星を見上げるよりは遥かにマシである。
「……」
深く息を吸って、大きく吐いた。同時に金色の瞳を閉じる。そうして己の根源に手を伸ばすと、欠けた器が何処かに共鳴して疼くのを感じた。やはり、我の力は分かたれて尚この世界にある。どうして我と共に力をこの世界へ飛ばしたのかは、文字通り神のみぞ知る、といった所だが……とにもかくにも都合が良い。
「力を集め、我はもう一度――最強へと舞い戻る」
神の座を脅かす魔王に、王の中の王に……そして、金色の魔王に戻らなくてはならないのだ。そうでなくては我ではない。この世は弱肉強食なのだ。ならば当然、最強であること以外に価値は無い。
そこまで考えて、我は自分の体が震えている事に気がついた。思わず驚いて目を見開いてしまう。その震えの理由は我自身が最も理解するものだが……あぁ、なんとも情けない。
「……妙な気分だ。神どもの仕業か?」
心臓がやけに速くなって、気分が悪い。……こんな時には鍛練をするに限る。そうだ、消えた筋力を少しでも水増しせねばな。せめて自分の体くらいは軽く持ち上げられなくては困る。
不気味な考えを振り払って、我はゆっくりと家の床にうつ伏せになり、両手でゆっくりと体を押し上げた。本当ならばソファーに足を乗せて足の位置を高くするところなのだが……。
「ぐぅ……ぬ……」
そもそも己の体重だけという低負荷の状態ですら筋肉が悲鳴を上げている。一回腕を立てて下ろすのが精一杯なのだ。なんとも無様に両手のひらを床に押し当てて、うめきを上げるのだが、プルプルと筋肉が震えるのみで、一向にまともな腕立てが出来ぬ。
こうなればと両ひじを床に突き立てて無理矢理上体を上げたが、両ひざや腰が床に付いており、不格好なことこの上ない。どうにかならぬかと考えているところで両腕が限界となり、床の上につぶれてしまった。記録、二回である。
「……何故だ。我の両腕にはしっかりと筋肉がついているというのに……というか、どうしてこんな筋力で立っていられるのだ」
疑問は尽きぬが、恐らく神から筋力という概念自体を持っていかれたのであろう。故に見た目上は筋骨粒々で通常の生活が送れても、実際に腕立て伏せや腕での殴打では筋力が機能しない。
これはあくまで予想であるが、そうであるなら神々の悪辣さに舌を巻くばかりである。
「更に言えば鍛えたとて、筋力が向上するのか……」
筋肉はそもそも付いているのだ。最悪の場合、無駄な苦しみに時間を投資する羽目になる。しばらく考えて、我は鍛練を続けることにした。無駄にせよ無駄でないにせよ、結局やらねば結果は得られぬ。それに、時間など今のところ腐るほど余っているからな。
もう一度、両腕を床に突き立てる。ゆっくりと体が持ち上がり……ぐ、下げられぬ。結局そこで筋力の限界がやってきて、我の体を床に叩きつける。……最悪なことにもう一つ付け加えることがあるとするならば、この鍛練の苦しみや筋肉への負荷は問題なくあるということだな。
筋肉に見合わず腕が辛い。
「ふっ……ふぅ……」
何度か繰り返してみるが、どう頑張っても二回の壁を越えられない。無理をするのはあまり体に良くは無いが……むしろこの体ならば朝飯前な運動の筈だ。苦しさや限界はあれど、筋肉自体に痛みを覚える訳ではない。なんとも不思議な感覚だが、元の体の頑丈さを信じて腕を突き立てる。
姿勢が良くないのではないか、とか、腕以外も試してみようとかの試みは基本的に全て打ち砕かれ、無意味になった。腹筋を鍛えようとすれば仰向けになった虫のようになり、背筋を鍛えようとすれば陸に打ち上がった魚のようだ。
原点回帰で腕立て伏せをするが、やはりすぐに床へと沈む。それ自体に怒りや不満はあるが、それと同時にこのまま終われない、という反骨心が無理矢理我の体を動かし、何度となく床に沈む。
一回に出来る回数ではなく、どれだけ筋肉に負荷を掛けられたかが大切である、というのは知っているが、我の
一時間もすれば筋肉が唸り、三時間続ければ骨まで軋み始めた。が、正直それはどうでもいい。元の我ならば三時間所か無限に出来てもおかしくないのだ。……流石に無限は数を盛ったが、三時間程度何でもない。
……とはいえ今の体ではそんなに無理は出来ず、三時間を少し過ぎた辺りで動けなくなってしまった。無理である。両腕が動く気がしない。同時に強い疲労が全身を襲うが、それらはどうにか誤魔化して、器用に腕を使わないでソファーに寝そべった。
……が、頭と足先が飛び出している。やはり小さいな。
鍛練とは1日で価値が出てくるものではない。数ヶ月、或いは数年を掛けて肉体を作るのだ。流石に数年の時間を投資する訳にはいかぬが、出来るならば毎日鍛えることにしよう。
と、そんな事を思っていると、我の六感が何者かの気配を感じた。気配の方向に目を向けると、階段に座り込んだリサがじっとこちらを見ている。……まさかこの我が暗殺者でもない人間の気配を感じ損ねるとは。慣れぬことを一心にやっていたからではあるが、どうにも味が悪い。
少しだけ荒くなった呼吸を整えながら、リサに声を掛ける。
「見世物では無いぞ」
「そんなつもりで見てない」
随分とあっさりした答えが返ってきた。我としてはこんな無様な様を延々と見られていた事に羞恥の念が尽きぬところであったが、リサは淡々と頬杖を付いて我を見ている。
なんだか気味が悪く、そんな気持ちに混ざった羞恥がごろりと喉元から零れ出た。
「……笑いたければ笑え。腕立ての一つもまともに出来ぬ癖に、とな」
「……笑うわけないでしょ。なんであたしがあんたを笑わなきゃいけないわけ?」
「……随分と滑稽だろうが」
「頑張ってる人間を見て滑稽とか言ってる奴の方が滑稽じゃない?」
その言葉は随分と的を射ているようで、我の中で燻っていた羞恥の火種が強く握り潰されるのを感じた。リサの目は嘘を言っているように見えず、それゆえに益々その真意が見えぬので、思わず逃げのような言葉がこぼれた。
「……我は人間ではない。神と竜と魔の血を継ぐ魔王だ」
「……なんで朝まで鍛えてたの? あんた、努力とか嫌いっぽいけど」
「……それは……」
ちらりと玄関口の方に目を送ると、月明かりにしては随分と明るい光が差し込んでいた。一瞬、我は質問の答えを濁そうとしたが、そんなことをこの女相手にやるようでは随分と怯えているようではないか、と思い、そのままに答えた。
「……我は神に筋力を奪われた。今では自分の体すらまともに持ち上がらぬ。情けない上に気恥ずかしい。だが、そんな自分のまま次の朝日を迎えるのは、それよりも恥ずかしかったのだ」
弱いことは罪である。だがそれよりも、弱いまま何もしないことの方がよっぽど重い罪だ。同じく罪を犯すなら、軽い方がマシである。弱いことは無様で無価値であるから、その罪を贖うために我は己を鍛えねばならぬ。卑しい努力をしなくてはならないのだ。
我の言葉を聞いたリサは瞬きを何度かして、ゆっくりと口を開いた。
「今みたいにしてれば、もう少しまともな奴に見えるんだけどね」
「相変わらず失礼な奴だ。……お前こそ、どうして我の鍛練を黙して見ていた」
「下で物音が聞こえて、不安で見てみたらあんただったのよ。邪魔するわけにもいかないから、黙って見てたら……あぁ、もう朝ってわけ」
確かに少々物音が立っていたかもしれぬ。エリーズが起きなかったのは良くわからぬが……あの女からしてぐっすりと眠っていてもおかしくはない。むしろその様子の方が容易に想像できる。
リサの言葉を最後に会話が途切れ、お互い話すこともないので、少しの間沈黙が続いた。
呼吸数個分の時間が過ぎ去った時、リサが頬杖を外して口を開いた。
「水飲む?」
「貰おう」
―――――――――――
水を飲むとリサは食品を納めているとおぼしき棚から少し大きめのパンを我に手渡した。曰く、朝食だという。本来ならば昨晩の残りを朝食に回すつもりだったとぼやいていたが、残念ながら我の胃袋の中である。それほど腹も減っていなかったのでパンを平らげると、すぐに満腹になった。
パンはやはり粉っぽく、これっぽっちも美味くは無かったが、腹が満ちれば充分である。……本当ならばリサのフルコースを期待していたのだが、眠そうな様子を見るに無理そうである。
お互い早めの朝食が終わると、またもや話すことが無くなり、しばらく無言になった。テーブルの対角に座ったまま、お互い静謐を築いているのだ。
……があまりにも無言による沈黙が長く続いたので、気まずくなってリサに会話を投げる。
「……冒険者になって、長いのか」
「……全然。4ヶ月くらい」
「……そうか」
会話が終わった。また沈黙が始まる。が、その沈黙は先程よりも少し感じの変わったものだった。なんというか……少々ひりついている。何か良くないものを踏んだような感じなのだ。とはいえ、リサの方から何かを言ってくる雰囲気では無かったので、無言で通す。しばらくするとその空気は緩和されたが……一体なんだったのであろうな。
そろそろこのままではまた不味い空気になってしまう、という瀬戸際で、鋭敏な聴覚が二階の物音を捉えた。エリーズが目覚めたようだ。我の反応で同じくそれを察したリサが、欠伸を片手に朝食を取りに行った。
少しするとドコドコと無遠慮で安心しきった足音が上から降りてきて、眠気眼を擦るエリーズが現れた。緩い黒髪は寝癖で跳ねて、面白い髪型になっている。
眠そうな目を擦り、そしてゆっくりと我を認識したエリーズは少しだけ驚いたような顔をした。
「……なんだ」
「いや、えーっと……コルベルトさんが居ること忘れてて……」
寝ぼけているのか? 他人が家に入っていることすら忘れるとは、本当に気の抜けた女だ。呆れた瞳でエリーズを見ていると、リサが台所から朝食を運んでエリーズに渡した。ありがとう、と一言呟いて、エリーズは小さな口でそれを齧る。
……やはり、何か違うな。リサはパンを大きく噛んでいたが、エリーズは随分と丁寧に食っている。
それらについて当事者に尋ねることは憚られ、かといってこの二人の親とおぼしき人物も顔を見せない。そこまで考えて、どうしてそんなことを考えねばならないのか、と身も蓋もない独り言が湧いてきて、いままでの思考を押し流してしまった。
朝食を食べきったエリーズが口元を軽く拭って、口を開く。
「リサー。今日はどうする?」
リサは一瞬だけ我を見て、少し考えた後に言った。
「行こっか」
「わかった」
「……行くとは、つまるところ組合か?」
「察しが良いじゃない。正解」
そう言うとリサは軽く背伸びをして、準備をする、という一言を残して二階に足先を向けた。エリーズもその後をトコトコと追いかけたが、何かを思い出したようにリサに耳打ちをした。
それを聞いたリサは中々複雑な顔をして我を見つめ、ゆっくりと言った。
「台所の奥にトイレとシャワールームがあるから……」
「うむ」
広い浴槽はついているかと聞こうとしたが、聞くまでもないようだな。……中々沐浴は好みであったのだが、ここは砂漠だ。しばらくは出来そうにない。更には着替えなど尋ねたいことが幾つかあったのだが、二人はそそくさと二階に上がってしまった。
言うことは言った、といった様子だ。随分と投げやりだな、とため息を吐いて、我は台所に視線を移した。
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