第11話 口づけ
「陽介は自分の人生をかけて、おれを守ってくれようとしたのに。おれは家を出た途端、陽介のことを避けるようになったんだ。陽介にとったら、きっと意味がわからないよね。こんなにおれのことを大事にしてくれたのに」
落胆しながら、テーブルを見つめていると、関口の声が聞こえた。
「そんなことはないじゃない。悪いけど、傍から見ていると、陽介は蒼のためにやってきた、というよりも、自分のために蒼と関わっていたとしか思えないね」
「え?」
「陽介は蒼が好きだったから。蒼の心が弱っているところにつけ込んだんだと思う。傷ついた子どもの気持ちをどうにかするなんて、とっても簡単なことだよ。彼は元々頭がいいんじゃないかな。彼自身も幼いながらに、無意識なのか、意識的なのかわからないけど、蒼をどうしたら自分の手元に置いておけるのかわかったんだと思うよ」
エプロンをしたままの関口は、じっと蒼を見ていた。
「弱い人間。空っぽな人間に愛情を注いでやればいいんだ。そうすれば、まるで雛鳥が親を慕うように、蒼は陽介だけを信頼した。そうやって、彼は時間をかけて、蒼を鎖につないでいったんだと思う」
——そうなのだろうか?
「蒼。人間は自由であるのがいい。蒼は何者にも縛られてはいけないんだ。蒼は蒼でしょう? 蒼は陽介にはなり得ないんだから」
「そ、そんなことはわかって——」
「わかっていないよ。だから、こんなことになっているんだ!」
関口は珍しく声を荒上げた。蒼はびっくりして肩を竦めた。
「人は一人だ。誰かと一緒ではない。蒼は蒼。陽介は陽介。僕は僕だ。僕は蒼とは一緒だと思わない。人間対人間の付き合いをしている。違う?」
「——そうだ。そうだね」
蒼の返答に満足したのか。関口は声色を和らげた。
「改めて言おう。おれは熊谷蒼という人間が気に入って、こうしてシェハウスをしてもらっているんだ。だから、蒼は蒼らしくいて欲しい」
「おれ、らしく?」
「そうだ。熊谷蒼って人間は、この世の中に一人しかいないじゃない?」
「関口
「そういうこと」
関口は少し咳払いをしたかと思うと、いつになく真剣な瞳で蒼を見据えていた。それはまるで、獲物に狙われた小動物みたいな感覚に陥って、落ち着かなかった。
「なに?」
「蒼。あのね。こういう機会だから、ってわけじゃないけどね」
「う、うん?」
「僕は蒼とのことを本気で考えたい」
——え、え?
蒼はぽかんとして関口をただただ見ていた。ふと伸びてきた関口の大きな手が、蒼の頬に触れた。それはほんのりと暖かくて、蒼の気持ちがじんわりとぽかぽかとしてきた。
「ほ、本気って?」
「だから。僕は蒼とお付き合いしたいって、お父さんたちに伝えたけど。それって、演技でもなんでもなくて、僕の本心で——」
関口の眼差しの真剣さに、「冗談はやめてよ」という言葉が出ない。関口は本気だったのだ。だから——陽介にもそれが伝わったのだ。そうだ。演技だったら、陽介は信じなかったのかも知れないということだ。
もう目の前がチカチカとして顔が熱い。
「で、でも」
「ごめん。陽介と関係性を持つことができるなら、僕でもいいじゃない。そう思った。だけど、そんなことを知るずっと前から——蒼と出会った時から。僕はずっと蒼が好きだ」
——出会った時からって……。
もう一年も前だ。蒼はそんな関口の気持ちに気がつくこともなく、こうして呑気に一つ屋根の下で彼と暮らしていたということか?
それを知った今、心に渦巻くのは、嬉しいような、驚愕しているような、それでいて、申し訳ないような複雑な感情だった。
「あ、あの。あの。あの……」
とてもその気持ちを言葉にすることは難しい。唇が強張って、ぶるぶると震えた。目をみひらいて、じっと関口を見返すことが精いっぱい。だが——。
ふと彼の顔が近づいたかと思うと、その震えている唇に、柔らかいものが触れた。それがキスだということに気がつくのに、数秒のズレ。蒼は腰を抜かしたかのように、後ろに倒れ込んだ。
「ごめん。蒼。驚いた?」
「う、ううん。ううん」
蒼は床に倒れ込んだまま、首を横に振ることしかできない。思考が停止——。そういう状況だ。頭が真っ白になって、なにも考えることが出来なかった。
「大丈夫。僕は節度ある男だからね。ちゃんと蒼の気持ちを聞くまでは、なにもしません。だけど、今日のご褒美くらいくれたっていいでしょう?」
「う——うん……」
「じゃあ、ごはん食べましょうか」
「——は、はい」
何事もなかったかのようにフォークを持ち上げる関口を見上げて、蒼はもぞもぞと躰を起こす。それから「いただきます」と小さい声で言った。
「明日からまた東京だ。ガブリエルのツアーの仕上げだよ。だけど、なんだか心配だな。僕がいない間に陽介が乗り込んでこないかな? 一応、星野さんにはお願いしていくけど。なにかあったら星野さんに言うんだからね」
「は、はい……」
ぎこちない返答をし、そっと彼を見上げる。関口は蒼の視線に気が付くとにこっと笑みを見せた。それは王子の笑み。あのステージの上で見た、堂々たる王子の笑みだった。
—第二曲 了—
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