第9話 ふさわしいのはおれだ!
「まあ、僕の場合。たまたま、欲して結婚したいと思った相手は女性だった。それだけの話だ。
「——はい」
「ちょ、ちょっと。関口」
蒼は顔が熱くなる。これは本気なのか?
それとも……なんらかの作戦なのだろうか?
まったくもって意図が見えない。
思わず掴んだ関口の腕だが、その手を関口が握り返してきた。その手は温かい。不安で不安で仕方がない自分の心を、やんわりと包んでくれる温かさだった。
「陽介さん。大事な弟さんかも知れませんが、これからは僕が責任をもってみていきたいと思います。蒼もそうしたいって言ってくれていますし——。蒼はあなたのことがとても大事だと言っていました。信頼できる兄だと」
関口の言葉に、陽介は狼狽えた。さすがに、この場で蒼との関係性を暴露できるほど、無知で、世間知らずで、空気が読めない男ではない。
そこで蒼は気がついた。これは関口が考えてくれた作戦なのだ。両親も交えて、こうしてやんわりと「もう関係ない。あなたは蒼の兄だろ?」と言っているのだ。これは——。
——陽介との決別。
蒼は関口の意図がやっと見えた。そして、心が決まる。いや、ずっと心に抱いてきた思いなのだ。それをここできちんと言葉にしようと決めたのだった。
蒼は陽介に躰を向けると、狼狽えている彼をまっすぐに見据えた。
「熊谷家で寂しい思いをしているおれをずっと支えてくれたのは陽介だった。感謝しています。今まで本当に、ありがとうございました。でもこれからは大丈夫です。おれは、もう寂しくないから。だからもう一人でも大丈夫なんだ」
蒼は深々と頭を下げた。下げてしまったので陽介の表情は見て取れない。彼の言葉が怖い。その沈黙の間、恩知らずでなんて失礼な奴だ! と自分で自分を責めた。
しかし蒼にはこうすることしかできないのだ。彼の気持ちに応えることはできないから。今まではそのジレンマに苦しんできたが、初めて。そう。初めて決心することができた。
この決断は正しいのだ、と蒼は確信していた。嫌われるかもしれない。殴られるかもしれない。だが、それでもやはり、こうするしかないのろう。
両手を握りしめて彼の言葉を待つ。ふと陽介の軽いため息が聞こえた。
「——こちらこそ、だが……」
陽介の声色の変化に蒼は驚いて顔を上げた。陽介は関口をじっと睨みつけるように見ている。
「おれは蒼の相手として、キミを認めるつもりはない。父親同士が知り合いだからって、そんな理由では認められない。聞けばまだ生計も儘ならないヴァイオリニストだというではないか。どう考えてもおれのほうが蒼を養う上では、適任だ」
陽介の意見に、栄一郎と海は顔を見合わせて苦笑した。
「まあまあ、陽介さん」
「陽介。そんな小姑根性を出してはいけないよ」
二人は純粋に陽介が蒼のことを、弟としてかわいがっているという形としてしかとらえられないようだ。しかし、陽介はお構いなしだ。
「いいえ。父さん。それから母さん。蒼は繊細で難しい子です。蒼の面倒はおれが一切みてきましたから。おれが一番わかっていることだ。——悪いがおれは、この男が適任だとは到底思えないんです」
敵意をむき出しにしている陽介を見て、関口はむっとした表情を浮かべた。
「いいえ。僕以上の適任はいないかと思っています! きっとこの世の中の誰よりも、蒼を幸せにできるのは僕しかいない!」
——せ、せ、関口ー!!
蒼は顔中が熱くなる。いくら演技とは言え、口にすることも憚られるような恥ずかしいセリフをよく吐けるものだ。感心する、というよりは、驚愕していた。それを受けて、陽介も黙ってはいない。
「そんなことは独りよがりの言い分だ。誰が蒼に相応しいかだなんて、キミが決めることではない」
「じゃあ、誰が決めるというのです?」
「それは——」
そこにいた関口、陽介、栄一郎、海、その四人の視線が蒼に注がれた。
「それは、まあ。本人だろうね」
栄一郎はにこっと笑みを浮かべていた。
「蒼、やっぱり蛍くんがいいんでしょう?」
海も優しく問いかけてくる。
——な、なんでここで。え? 演技なのに。なんだかちょっと……。
しかし、関口がこうして自分のためにひと肌脱いでくれているのだ。ここで「関係ありません」なんて言葉はとても口にはできなかった。
蒼はそっと関口の腕を掴まえて、それからしどろもどろに口を開いた。
「お、おれは……関口が……えっと。け、蛍と一緒にいたい……です」
「蒼ったら」
海は「うふふ」と笑みを見せる。陽介はまるで断末魔の叫びをあげているムンクの叫びのような表情をしていた。
——ごめん。陽介。本当にごめん……。
「おやおや。蒼は意外に積極的なんだね」
栄一郎は「ぷ」っと吹き出した。蒼にとったら予期せぬ展開だ。しかし、これはこれでよかったのかも知れない。
その後のことはよく覚えていない。陽介はあまりの衝撃に部屋を出て行ってしまった。
栄一郎と海に夕飯を勧められたが、もちろん、到底そんな気分にもなれない。蒼は関口に手を引かれるまま、実家を後にして自宅に帰った。
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