第2話 弓と刃

 叛乱に至る歴史を語るにはここで数か月ばかり時を巻き戻さねばならない。すなわち、アリン一族の処刑前、父の叛乱企図「発覚」前に。

 アリンの祖父である皇帝がまだ健在であった頃、皇子アルハガルガの家の庭先で、一人の少女が杏の花を愛でていた。透き通るような黒い巻き毛の髪に、薄く色づいた桃色の唇。彼女はユエラン、アルハガルガの娘。父に玉のように可愛がられ、今年で十三になろうとしていた。杏の花は盛りをわずかに過ぎ、風が吹けば無数の花びらが舞う。可憐な少女の姿を含めて、その光景は一幅の絵画のようだった。

 その庭に黒髪の少年が入って来た。訪問用の礼装をしている。ユエランよりは幼く、まだ背も低い。アリン。彼は庭を横切りまっすぐにユエランの元に歩いてくる。

 ユエランはアリンを見て微笑んだ。

「出陣前の忙しい時にごめんなさい」

「いえ、構いません。あと二日あります」

 ユエランは他人行儀な従弟の言葉に苦笑する。他人行儀といえば自分もそうなのだが。彼女は瀟洒しょうしゃな服の裾を揺らすと、杏の樹の下に置いていた箱から絹でくるまれた縦長の包みを取り出した。華奢な彼女の腕には些か重いようだ。アリンは様子を見かねてユエランの側に膝をつく。枝と薄紅の花々が二人に淡く影を落とした。

「これをお渡ししたかったの」

 アリンはその縦長の包みを受け取る。

「中身を拝見してもよろしいですか」

 ユエランは小さなおとがいでうなずいた。アリンは絹を取り払う。包まれていたのは、革の鞘に入った一振りの曲刀だった。鞘に三本赤い線が引いてある他は何も装飾が無い武骨なものである。アリンはそれを一目見て好ましく思った。鞘を払うと、触れたもの全てを斬らずにはおかぬような鋭利な刃があらわになった。間違いなくこの帝国で最高の仕事がなされた名器。

「何かあなたの役に立つものをと」

 アリンは従姉を見つめる。

「あなたがこれを手に入れるのはご苦労なさったはず」

 皇子の娘とはいえ、女性が容易く入手できるようなものではない。ユエランは首を振った。

「あなたにどうしても何か差し上げたかったから。西北の戦場では敵味方それぞれ一万を超える兵士達が死んだと聞きます。とりわけ、アザン・バリの酋長しゅうちょうジバは手強い相手。どうかお気を付けて」

「ユエラン……」

 そこに一人の少年が駆け込んできた。黒い巻き毛の髪をもった彼はそのままアリンにぶつかるようにして二人のもとにやってくる。彼はエルデム、ユエランの弟にしてアリンの従弟。アリンと同じく十歳。エルデムはアリンの肩に抱き着く。

「アリン! いよいよ初陣だね。無事に帰って来てね」

 アリンはまだ年相応の子供らしさを残す従弟に向かって頷く。

「当然だ。心配するな」

 アリンは立ち上がった。今彼と共にいるのは、ごく幼い時から互いに行き来した美しいいとこ達。春の柔らかな陽光が三人を照らす。そこでやっとアリンは少年らしい笑顔をみせた。

「ユエラン、エルデム、出陣前に二人に会えてよかった」



 出陣の一日前、アリンと父ムドゥリ、兄のアリンタイは宮中の朝政殿ちょうせいでんに参上していた。普段そこは朝廷が開かれまつりごとが行われる場所である。黒い石畳が荘厳に広がり、きざはしを登った先、五匹の龍が彫られた玉座には老皇帝が座っていた。彼こそは帝国を六十年に渡り支えた名君。聖なるハンエンドゥリンゲ・ハンの聞こえも高いアリンの祖父であった。祖父は威厳と寛容さをたたえ、老いてもなお確固として彼らの前に君臨している。

 ムドゥリ、アリンタイ、アリンは老皇帝の前に進み出て跪くと、頭を石畳まで下げて叩頭の礼を取った。老皇帝は玉座の高みから三人にねぎらいの言葉を掛ける。

「ムドゥリ。そなたは朕の息子にして朕が最も信をおく臣下。アザン・バリのジバを討つこの戦、そなたならば必ずや大捷たいしょうを掴むと信じている」

「はっ!」

「アリンタイ。そなたが戦に出るのはこれで三度目。これまでと同様、よく父を助けよ」

「はっ!」

 老皇帝は最後に三人の端で叩頭する小さな孫を見た。

「アリンよ。そなたはまだ十。本来であれば初陣には早い。しかし、ムドゥリが是非にと申すので許した。その年でよく馬に乗り弓を使いこなすと聞く。我らドゥリンバイ帝国の創始者デルギニャルマがかつて長城の外側で武勇を誇った遊牧の者達であることは知っておろう。そなたはその血を濃く引いておるのかもしれぬ。朕はかつて彼の者達が使った古の言葉でそなたを送り出すことにしよう。グヌアリン。ベリジェイェンシムベヤルミ」

 アリンは石畳に額を強く押し付けた。

「サハ!」

 出陣の日、払暁ふつぎょうの光は、ムドゥリ率いる一万の軍勢が着る鎧を白く輝かせた。帝都ギン・ヘチェンから北へ向かう騎馬軍団の列が整然と伸びている。アリンと兄アリンタイは先頭で軍勢を率いる父ムドゥリの横をそれぞれ馬に乗り進んでいた。

 アリンの背には使い慣れた弓と十分な矢。腰には赤く三本線が入った鞘の曲刀。血が騒ぐ。戦の前だというのに恐れは無かった。自らに流れる剽悍ひょうかんな遊牧民の血をアリン自身も自覚した。

 アリンは夜明けの風を感じる。砂の混じる乾いた風。それは長城の外、この帝国の始まりの地から吹いてくるのだ。

 グヌアリン行けアリンベリジェイェンシムベヤルミ弓と刃がそなたを導く

 アリンは馬の上で小さく息を吐きだしそれに答えた。

サハ……承知しました!」

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