第77話 誰にも見つからない

 パシャン。


 魚でもはねたのだろうか。

 しかし、いくら周囲を見渡せど、水面が揺れている様子はない。


…………余計なことに気を取られていないで、さっさとを終わらせてしまおう。


 改めてミニボートの床に横たわる毛布の塊を確認する。

 ロープはしっかりと結ばれている。間違っても何かの拍子に解けてが出てしまうようなことはないだろう。湖岸の土を袋詰めにした即席の重りも問題はない……はずだ。


 ガサリ。

 ポチャン。


 鳥だろうか。それとも別の動物か。

 人ではない。こんな山奥の湖畔にわざわざ人が来るわけがない。

 それはだって保証していたじゃないか。


 手が震えている。


 これはきっとボートを漕いだせいだ。

 あつらえたように岸に乗りあげていた、古ぼけたミニボート。

 塗装もなにもない木製の小舟にはエンジンなどなく、比較的真新しいオールが一本だけ中に転がっていた。

 人生で初めて手にしたオールは驚くほど重く、湖の中心までたかだか数十メートルを移動するのにずいぶんと時間と体力を使ってしまった。


 問題ない。問題ない。


 あと少しだ。

 あとはを捨てるだけで、なにもかも終わる。

 毛布の塊は重りによって湖底の深い深い泥に埋もれて二度と浮かんでこない。


 誰にも知られない。

 誰にも見つからない。

 

 そもそもすべてコイツが悪いのだ。

 俺を裏切るから。

 他の、どこの誰ともわからない男に浮気なんてするから。

 この毛布だって随分と高かったのだ。お前が散々ねだるから買ってやったのに。

 だから、これは、自業自得だ。


 だから俺は悪くない。


 毛布にくるまれたそいつと床の間に手を差し込み、力を込める。

 その瞬間、先ほどまで石像のように硬直していたはずのそれが、芋虫のようにぐにゃりと曲がり身体にまとわりついてきた。

 まるでしがみつくような動きに全身が総毛だち、思わず呻き声が漏れる。

 それでもどうにか気力を振り絞り、両膝に渾身の力を込めて一息に立ち上がった。

 反動で毛布の塊がボートのへりまで持ち上がり、ささくれだった木製の枠を乗り越えていく。


 俺は、やけにゆっくりと視界から消えていこうとするそれを眺めていた。

 どこかに引っ掛けたのだろうか。毛足の長い布の端がめくれて一部が露わになっている。

 できの悪いワックスをぶちまけたように血糊でごわついて固まった黒髪。

 白い額を覆う、巨大なかさぶたのように乾いた赤黒い粘液――


 やがて重々しい飛沫が上がった。


「やった……これで……」


 解放される、と歓喜したのも束の間、ぐらりと船体が大きく揺れた。

 急激に重量と重心が変化したことによって、ボートのバランスが崩れたのだ。


 上体が傾く。

 持ちなおそうと身体を捻るが、すでに体の大半は小舟の外へと出てしまっている。


 深緑の水面が急速に近づいてくる最中、ふと、疑問がわいた。


 どうして先輩は俺にこんな場所を紹介したのか。俺の話を聞くなり、道順からの仕方まで教えてくれたのは、いったい何故だろう。

 そして、いつからだったろう。あいつが共通の友人である先輩の話題を出さなくなったのは。


 バシャバシャと餌に飛びつく魚のように、水面の向こうから伸びてくる無数の腕が、その答えを示している気がした。

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