第62話 もしもし

「ねえ、キミは誰かに電話をかけた時、なんて言うかな?」


 わたしは突然の問いかけに首を傾げた一瞬の後「“もしもし”、ですね」と答えた。

 古びた木造校舎の狭い一室。向かい合わせにくっつけられた学習机の対面に坐した先輩が「そうだよねぇ」と満足げに頷く。頭の動きに合わせて獣の耳にも似た癖っ毛がピコピコと揺れて、ついわたしの目はそこに引きつけられてしまう。


「なら、その由来については?」

「ええと“申す”が変化して“もし”になったって聞いたことが……」


 重ねて問いかけられて、慌てて視線を戻す。

 うろ覚えでちょっと自信がないが、もとが「申し上げる」だから「これから要件を言いますね」という意味合いの言葉として使われている、はず。


「さすが。物知りだね。じゃあ、最後。どうして二回言うのかな?」

「二回?」


 反射的におうむ返しに繰り返してしまった。


「そ。二回」


 背後の窓から差し込む西日を避けるように、先輩は少しだけ腰掛けている椅子を動かした。

 つまりどうして「もしもし」と「もし」を二回続けるのか、ということだろう。

 さてはて、そこはさすがに知らない。

 首を傾げると、それを見て取った先輩は嬉しそうに立ち上がった。


「“もし”を二回続けるのは自分がではないと証明するためさ。“もし”“申し”は江戸時代の頃から使われていてね。時代劇で声をかける定型文で聞いたことないかい?『もし、そこのお方』って。……ない? あ、そう? そも時代劇を見ない?

…………まあともかく、煌々と文明の光が四六時中灯っている現代とは違い、夕暮れ時を過ぎてしまえば行逢う人の正体すら知れぬ時代だよ。明かりといえば油にひたした灯心の小さな火だけ。つまり蝋燭で生活しているようなもんさ。提灯なんて持ってても、二メートルも離れてしまえば顔なんて見えやしない。そんな闇の中、声をかけられる――『もし?』とね。さてはてそれは本当に人なのかな?」


「もし」と呼ばれ振り返った先。暗がりからじゃりじゃりと近づく草履の音。ちろちろ頼りない灯火に浮かび上がる擦り切れて薄汚れた小袖。闇に溶け込んだ首にのっているのは果たして人の顔か、それとも――。


 情景を想像して思わずぷるりと背筋が震える。

 わたしの反応を見て、先輩はいよいよ笑みを深くしたようだ。あいにく濃い日影に隠れてしまってほとんど見えないけれど。


「別に大昔に限った話じゃないよ。山野の自然が色濃く残る場所でなら近代までこうした『怪に行き遭う』なんてことは珍しくもなかったのさ。しかも狸や狐のように化かすだけならいざ知らず、魂まで持っていくような奴だっていたらしい。なればこそ人々は対抗策を考えた。蛇には煙草。大百足には唾。ならば道中に声をかける怪異には?」

「それが“もしもし”ですか?」

「その通り。どういうわけか怪異たちは同じ言葉を続けて言えないらしい。だから、みんな声をかける時は『もし』を二回続けるようにしたんだね。『もし、もし』なんていつまでたっても区切って呼んでくるような奴は怪異しかいないってわけだ」


 なるほど。そうした流れが電話の一言目に定着したのではないか、ということか。

 今みたいにスマホの画面にお互いの顔を映して通話をしたり、着信番号が表示されるなんて一昔前までなかったのだ。それこそ闇の中で会話をするに等しかっただろう。


「とても興味深い話でしたけど、どうしてそれをわたしに?」

「キミ、幽霊視えるだろ」


 先輩の指摘に「はい」と素直に答える。

 別に隠していることではない。


「そんな感受性の高い後輩にちょっとしたアドバイスってところさ」


 そう言って先輩はぴょこんぴょこんと特徴的な癖っ毛を揺らしてそばにやってくると「さ、今日の講義はここまで。もうじき下校時刻だよ」とわたしを強引に立たせて出口の方へと押しやる。


「おや、ちょうど外にキミのクラスメイトがいるみたいだね。ついでに一緒に帰るといい」


 だが色褪せた木製扉の硝子の向こうには誰も見えない。

 抵抗する暇もなく、ガラッと木戸が横にスライドすると同時にわたしは背中を押されたのだった。



   * * *



「なにやってんだ? こんなとこで」


 かけられた声に顔を上げるとクラスメイトで幼馴染の男の子が怪訝な表情でのぞき込んでいた。

 はて、扉の向こうには誰もいなかったはずなのだけど。

 しかし、振り返ればそこには白いモルタルの壁と等間隔に並んだ窓。少し汚れたガラスの向こうには赤焼けの空が紺色に陰りだしていた。

 木製の扉とその先に続いていたはずの木造の小部屋など影も形もない。どこを見渡してもコンクリートとモルタルの壁にリノリウムの廊下である。

 どうやらわたしは二つの校舎を結ぶ二階の渡り廊下でぽつねんと立っていたらしい。


「ホームルームのあと、さっさと帰ったかと思ったけど。何か用事でもあったのか?」


 幼馴染の言葉に、わたしは「やられた」と顔をしかめた。

 なるほど、確かに彼女は一度も「」とは言わなかった。

 つい先ほどまで面と向かって会話をしていたというのに、記憶の中のは影絵のように判然としない。

 ぐうの音も出ないほど見事に化かされてしまったものだ。

 いつから――というのは、もうこの際どうでもいい。

 わたしは急いでセカンドバッグの中身を確認し、がっくりと肩を落とした。


…………魂を抜かれはしなかったが、昼に買いおいていたお気に入りのパンと飲み物を持っていかれてしまった。


「もしもし?」


 あまりにタイムリーな呼びかけに、わたしは思わず全力で睨みつける。

 いけないいけない。

 たじろぐ幼馴染の姿にため息をひとつ。

 そういえば「ついでに一緒に帰るといい」とか言ってたっけね。


「これから時間ある?」

「ん? おう」

「なら、駅そばのタイ焼き屋に行くからつきあってよ」

「いきなりだな……まあいいぞ」


 戸惑いつつも二つ返事で了承する、つきあいの良い幼馴染である。


「ところで、確かバイト代入ったって言ってたよね。せっかくだから奢って」

「え……」

「お、拒否権はないよ? 昨日一昨日と宿題を手伝ったでしょう」

「……わかったよ」


 まんまと出し抜かれたのは業腹だが、仕方がない。なくなった分は別のもので代替えするとしよう。


「……奢るついでに今日の数学の宿題、教えてくれよ」

「タイ焼きもう二個追加で。飲み物もつけてね」

「はいはい」


「はい」は一回――とは言わないでおこう。今だけは。

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