第41話 そこにいろ
自転車がパンクした。
場所は山陰地方のとある山の中。
大学の長い夏休みにかこつけて、ちょっとサイクリングがてら普段の生活圏の外を巡ってみようと遠出したその帰りだった。
スマホで現在地を確認してみるが、アパートのある街まではまだずっと先だ。自転車を押して歩いていては、山の中で日が暮れてしまう。パンクしていても自転車に乗れなくはないが、それで山道を下るには余りに危険だし、タイヤがダメになってしまう。
どうしたものかと迷っているうちにアラーム音を立てて電源が落ちてしまった。充電が切れてしまったらしい。電源ボタンを何度も押してみるが、再びつく気配はない。
途方に暮れて一本道の先を眺める。
一車線半程度の幅がある道路の左右は背の高い木々に覆われて薄暗く、曲がりくねっているため視界が悪い。車が通りがかるのを期待したいところだが、アスファルトに積もった枯葉の量が交通量の少なさを物語っている。事実、この山道に入ってから車どころか人の影すら見ていない。
そういえば、と充電が切れる直前に表示していた地図を思い出す。
もう少し進めば、トンネルがあるはずだ。来た時にも通ったのと同じトンネルで、確か手前に電話ボックスがあったはず。
記憶が間違っていないことを祈りつつ自転車を押していくと、大きく右へ曲がったカーブの先にトンネルの一部が見えてきた。
古びて黒ずんだコンクリート造りのトンネルは、暗くなり始めた風景に溶け込んで異様な雰囲気を醸し出している。光量の足りていない、まだら模様に影の浮いた内部は得体のしれない怪物の口を覗きこんでいるようで、私は背筋を震わせた。
――来るとき、こんなに気持ち悪かったっけ?
すっかり怖気づいてしまった私は祈るような気持ちで周囲を見渡す。
トンネルの脇、退避所として拓かれたスペースの端っこにぽつねんと立っている電話ボックスの姿を認めて、ほっと胸をなでおろした。
早速小銭を入れて、姉へと電話をかける。
私が唯一覚えている番号で、同じ街に住んでいる。社会人だが、今日は姉も休みだったはずだ。
十コール目でようやく出た姉に、迎えに来てもらうよう事情を説明する。
「――迎えにって、アンタどこにいるの?」
「ええっと、〇〇トンネルってトコの前」
「んー? どこだそれ。ちょっと待って」
姉の声が遠くなる。多分、場所を調べているのだろう。
公衆電話の通話時間が足りなくなってしまわないか、気が気ではない。
ハラハラしながら待っていると「あー、あそこか」と姉が呟いた。
――こん、こん。
突然、響いた硬い音に、私は「ひゃっ」と声をあげて振り向いた。
ガラスを隔てた先はすでに真っ暗で、周囲に街灯すらないことにようやく私は気づいた。電話ボックスの明かりが周囲一メートル程をぼんやり照らしているだけだ。
「ん、他に誰かいるの?」
受話器の向こうで姉の声がする。
ふるふると首を振ってから、これは電話なんだと思い出した。
「ううん、風で飛んできたゴミか何かがガラスに当たっただけみたい」
「――そ。これから迎えに行くから、その中で待ってなさい」
「え、でも――」
「暗い山ん中で突っ立ってるよりマシでしょ」
「それは、まあ。でも、誰か来たら?」
「どうせ誰も通らないし、そんなとこの電話なんて使おうとしないよ。あ、もたれるなら戸にもたれなさいよ」
「なんで?」
「外から押されたら簡単に開いちゃうでしょ。でも、もたれとけばいきなり不審者が入ってこようとしても身体が邪魔で開かないし、野犬とか猪とかが寄って来たとしても安心じゃん」
不審者と聞いて、私は逆にこのボックスから出たくなった。
だって袋のネズミじゃないか。
「いいから、そこにいな!」
予想外に強い姉の言葉に、私は息を飲む。
「さっきも言ったでしょ。誰も来ないよ、どうせ。念のためだって」
声音こそ穏やかだが有無を言わせない圧力に、私は不承不承頷いた。
受話器を置くと、姉の言いつけに従って戸にもたれて座り込む。
膝に顔をうずめてジッとしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
――こん、こん。
かすかにガラスを叩く振動に、ゆっくりと意識が引き戻される。
――ぎ、ぎぃ。
戸が軋んだ音をたてて、ぐぅっと私の背中を押した。
一気に覚醒した私は、反射的に戸を押し戻す。しかし、さらに強い力で戸が開かれようとする。
眼前のガラスには必死の形相で戸を抑える私の姿が反射している。だが、その頭上には誰の姿も写っていない。
ただ戸だけがギイギイと動めいている。
私はパニックになりながらも両足を反対側のガラスに突っ張る。
全身をこわばらせて耐えていると、やがて背中に感じる圧力がなくなった。
(助かった……?)
ふっと一息ついた途端に名前を呼ばれ、私は飛び上がって戸から離れてしまった。
焦って振り返ると、車のライトを背に姉が立っている。
「……さっき、戸を押した?」
そろそろと外へ出る私に「してない」と姉は首を傾げる。
嘘をついている様子はない。
それならさっきのは何だったのか、と電話ボックスを振り返った瞬間、私の心臓がきゅうっと縮んだ。
ガラス戸の下の方、ちょうど私の背中があった辺りにくっきりと手形がついていた。まるで泥だらけの山道を這いつくばった手で触れたような、土まみれの手形が。
私は姉を急かして、車に飛び乗った。
「ねえ、あのトンネルって、もしかして心霊スポット?」
「なんで?」
正面を向いたまま運転する姉に「信じないかもしれないけど」と前置きをして先ほど体験したことを放す。
すると姉は「知らない」とあっさり返した後、私を真似て「信じないかもしれないけど」と続けた。
「あそこが曰く付きな場所かどうかはホントに知らないけどね、電話してるとき『ほかに誰かいるか』って聞いたでしょ? あれ、アンタの方がうるさかったからなんだよ」
姉が言うには、電話の途中からガラスを叩く音やうめき声とも話声ともつかない人の声がずっと聞こえていたらしい。
「だから、そこにいろって言ったの」
姉は真っ青になった私をちらりと横眼で見ると――
「これに懲りたら、暗くなる頃にあんな
と、私の頭を軽く小突いたのだった。
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