第9話 穴

 私は穴が怖い。


 指が入るくらいの、小さな穴が。


 あのぽっかりと空いた空間。

 覗きこんでも光がとどかない真っ暗な奥の奥。

 その突き当りに、いったい何がいるのか。

 それを想像するだけで、私は背中から氷水をかぶったようにがガタガタと震えてしまう。


 細い隙間も同様だ。

 誰かが隙間に入り込んだモノをとろうと指を入れているのを見ると、悲鳴をあげたくなる。


 みんな怖くないのだろうか?

 不安じゃないのだろうか?


 多分、私以外にはただの妄想なんだろう。

 実際、この話をした人にはそう言われた。


 小学生に上がる前の頃だ。

 私は実家の物置で古い電話台を見つけた。


 五十センチ四方の小物入れに四足がはえた簡単な造りのものだ。

 焼けたような焦げ茶色をして、電話をのせる天板は厚く埃をかぶっている。

 引き出しは二段。引手は棒状で先端が丸まっていて、下部に指を引っかけるくぼみのある簡素なものだった。

 ただ、下の段には引手がついているのに、上の段は取れてしまったのかついていない。


 これだけなら何の変哲もない電話台だ。

 見慣れないから物珍しくはあったろうが、当時の私ならすぐに他へ興味をうつしていただろう。

 しかしそうはならなかった。


 なぜなら、なくなっている引手の跡にガムテープが貼りつけられていたのだ。

 引手は差し込むタイプのようだから、穴をふさいでいるのだとは子供心に理解したけれど、その理由がわからなかった。

 これじゃあ直せないし、引き出しもあけられないじゃないか、と思った。


 まじまじと湿気でまだらに変色したガムテープを眺めていると、真ん中――引手の刺さっていた穴の部分――が破れそうになっているのに気づいた。

 不安定なトランプタワーや積み木をつつくような気分でそこに触れる。


 ぺり――と、指のあたった部分だけ割れたようにはがれ、ガムテープだったモノのかけらがパラパラと落ちていく。

 あとには引手を差し込むための穴がぽっかりと黒々とした口を開けていた。


 まん丸の暗闇を見つめているうちに、少しずつ自分が吸い込まれていくようだった。

 気がつけば、私は電話台に額がつきそうなほど顔を近づけて穴をのぞき込んでいた。


 やがて私は、人差し指を穴へ向ける。

 爪の先からゆっくりと私の指は引き出しにのみ込まれていく。

 ワックスがけでもされているように滑らかな穴の内側を指の腹がなぞっていく。

 欠けたピースを埋めた、そんな恍惚とした達成感が胸を満たしていった。


――がじり


 突然襲ってきた激痛に、私は指を引き抜いた。


 指はまるでささくれだらけの木の隙間を通したように無数の傷が走り、そこから血がにじみだしてくる。


 茫然とあふれ出す赤に次第に染まっていく指先を眺めていると、妙な音がすることに気がついた。


 がちがちがちがち――


 固いものをぶつけあっているような音が、小さく、しかし鋭く薄暗い物置部屋に響く。

 

 それは電話台の方からだった。

 引き出しの、例の、穴から。


 がちがちがちがち――


 真っ暗だった穴の中に白いものが見えた。


 歯だった。


 穴の中に、小さく、鋭利な歯がびっしりと生えて出入りを繰り返している。

 それらが互いにぶつかり合い、がちがちと音をたてていた。


 その後はよく覚えていない。

 泣き叫んだ気もするし、一言も発せず茫然とし続けていたところをさがしに来た家族の誰かに発見されたような気もする。

 傷のことを訊かれ、電話台のことを話したとは思うのだが、それすらも定かではない。

 

 私は一週間熱を出して寝込み、指の傷は深くはなかったが消えるまでに一月以上かかった。


 電話台はいつの間にか物置からなくなっていた。

 家族の誰もそんなものはなかったの一点張りだ。


 正直、記憶もあやふやで時間のたった今となっては、私自身も子供のころの夢か何かだったんじゃないかとすら思ってしまう。


 ただはっきりとしているのは、私は穴や隙間が恐ろしい。

 アレを見かけるたびに恐ろしく、不安になり、指先に当時の痛みと共にうっすらと赤い無数の線が浮かび上がるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る