淡々
ひむかいはる
ナイフを持っています
麗らかな春の陽気が、出会いへとボクたちを誘う。
入学式が終わった1-Cの教室には、俄かに話し声が上がっていた。緊張した面持ちは講堂からの帰り道の廊下で自然発生した雑談で多少晴れた者もいたようだ。ボクはというと特段自分から話しかけるようなことをしない性分で、ただ誰と会話をすることもなく、出席番号34番、教室の一番奥、窓際の列、後ろから3番目。そこに頬杖をついて窓の外の景色を眺めていた。
中庭が見える。芝生は青く、この日のために春休みに整えたのだろうとも思えるほどに鮮やかに。その真ん中に1本、今いる校舎の2階まで届こうかという高さの桜が空に向けて枝葉を延ばし、花弁がひらはらと舞い踊っている。
これ以上に春だと思える光景があるだろうか。花の女子高生、15歳の捻橋詩希の新たな日々。
花弁がくるくると回りながら、風に乗ってゆらり、ゆらりと地面を目指す。何百も、何千も。華やかな高校生活なんて望んでないけど、せめてボクらしく、人並みに楽しく。
そう考えながら中庭から教室内へと視線を向けると、ぼーっとしている間にスーツを着込んだ男性が教卓に手をついていた。自分のことを担任と名乗っていた。年の頃30半ばといったところ。何か色々と話していたが、正直なところボクは彼の自己紹介が右から左へと流してしまっていた。生徒にウケのよい明るいトークをしているのか、教室は笑いに包まれていたが、ボクはただ、彼に目を奪われていたのだ。
ガチャガチャで担任を引くことができるとするならば大当たりだろう。すでにこれだけいい雰囲気を生み出し、生徒の心を掴んでいる。だがボクは教卓の目の前に座っているにも関わらず、身動き一つしない「彼」に目を奪われていた。
この教室で笑っていないのは、彼と、彼に見入っているボクだけだったから。
まず冴えない印象を持った。こけた頬、瘦せぎすの体。おかっぱにも近いような、幼い印象を与える髪型。回りの男子と見比べてみれば、背も小さい方だった。入学式だというのに、制服はヨレヨレで、それでいて少しサイズが大きすぎるようにも思えた。お下がりなのか、それともどこかで安く手に入れられたものなのか。ボクには知る由もなかった。
続いて生徒自身の自己紹介の時間がきた。出席番号的にはボクはずっと後ろの方。彼は座っている席から推測するに7番。ボクよりずっと早く、彼のことをボクは知ることができる。
彼のことを早く知りたいと思う。これは何とも奇妙な感覚だった。ただ彼に注視しすぎてはいけないと思った。彼は所謂「変な人」だと思ったから。
「変な人」と関わると高校生活が終わってしまうかもしれないから。不意に見過ごしてきた中学生時代の記憶にかぶりを振って蓋をする。
もう安易なボケを交えた寒い自己紹介も、ただ出身中学を言うだけの凡庸な自己紹介もボクの耳には聞こえてこなかった。ただ彼が何を言うのだろうか。それだけが気になっていた。それを聞いたら彼への興味を失おう。そう思っていた。
さあ、回ってくる。出席番号6番の男子生徒が好きな女優を公言して(それを伝えてどうしたいのかもわからない)席につく。先生がうんうんと頷きながら、口を開いた。
「では────7番、」
彼の名前を呼んだ。彼は立ち上がる。サイズの合わない制服を揺らして。
───ただどうしても、2年経った今、彼の名前が思い出せない。何故なら彼はその日っきり、教室に姿を見せることはなかったからだ。
人の記憶程あてにならないものはない。だが、彼が自己紹介で残した言葉は、今でもずっと頭に残っている。名前さえ憶えていないのに。
明るい声で言い放った。
「ボクはこの世界が嫌いです!」
その後の彼に関する記憶は、一切ない。共感を示してしまったら、この高校で生きていけないと思ったから。
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