籠の中 番外編

椿叶

その温もりに

 秋になると、夜の風は急に冷たくなる。馬を走らせ、耳の側を風が通り抜けていく度に、身体の表面から体温が奪われていく。そうしてしばらくも経たないうちに、身体の芯が冷えていくような感覚を味わうのだった。

 雪月がこうして夜に馬を走らせるようになってから、一月近く経った。最初の頃よりも陽の出る時間が短くなり、暗く重たい夜が長くなっている。そのせいか、星と月を頼りに進んでいるはずなのに、闇が足元から這い上がるように思えてしまう。だから普段よりもずっと急いで、真っすぐに進むしかないのだった。

 ああ、はやくあの人のところへ向かいたい。あの人――姉様といる間は、這い寄る闇の恐ろしさも、迫りくる冬の冷たさも、すべて忘れられるのに。

 遠くで犬が吠える。思わず肩が震えそうになるのを抑えながら、ひたすらに走り続ける。

 香月は、凍えていないだろうか。一人では何もできないようにしているから、雪月が何も用意しなければそれまでだ。退屈しのぎになりそうなものと一緒に、肩掛けやひざ掛けの類を渡しこそしたが、大人しくそれを使ってくれているかは分からなかった。

 本心を言うならば、一日中彼女の側にいたい。夜にだけ人目を避けて会いにくるのではなく、思うがままに逢瀬を重ねたい。とはいえ、それはもう叶うことのないのだが。

 人が滅多に来ることのないような、外れた土地。木の陰に隠れるようにしてたたずむ、小さな屋敷。それが見えたとき、思わずほっと一息ついた。今日も、何とか来ることができた。

 馬を小屋につないで、庭をちらりと見やる。荒らされような跡もなければ、急ぎ手入れをしなければならぬものもない。ここを出る前に、簡単に手入れをしてやれば十分だろう。香月の好きな花を増やしてやりたいのは山々だが、まだ植えるには場所が足りない。何より、季節が合わない。

 いずれ、温かくなれば。そうぽつりと呟き、鍵の束を取り出した。

 鍵なんて、こんなに多くなくてもいいのは知っている。だが、誰かが開けてしまうことのないように、香月が外に出てしまうことのないように、幾重にも幾重にも戸を締めて、その一つひとつに鍵をかけてしまいたくなるのだった。

 かちり。かちり。

 どれがどの鍵かは、もう覚えた。いちいち確認するまでもない。

 かちり。かちり。がちゃん。

「姉様。ただいま戻りました」

 細やかな装飾の施された部屋の奥。豪奢な造りの寝台で、布の塊がわずかに動いた。どうやら起きているらしい。

 わざと足音を立てて近寄り、その塊を見下ろす。布団やひざ掛け、肩掛けが乱雑に体に巻き付けられ、身体はおろか顔まで見えなくなっていた。

「姉様。出迎えてくださらないのですか」

 布を丁寧に、一枚一枚剥がしていく。最初こそ寝たふりを続けていた彼女だったが、最後の一枚をはぎ取られそうになると、慌てて端を掴んできた。

「起きていらっしゃったのですね」

 彼女の手首を掴み、強張った指をほどいていく。

「や、やめ」

「今日は、何もしませんから」

「嘘」

「どうでしょうね」

 最後の布団を奪い取ると、ようやく香月の顔が見えた。睫毛は濡れたままで、頬には泣いた跡が残っている。瞳は依然怯えたままで、なかなかこちらを見上げようとはしない。

 ようやく会えたのだ。最初くらい、目を合わせてほしい。そう手を伸ばせば、その瞼がぎゅっと閉じられてしまう。

「姉様」

 何度も繰り返したやりとりだ。言わずともこちらの望みは伝わっているらしく、ただ首を振って返された。

「なら、私を呼んでくださいますか」

 こちらの様子をうかがうように、香月が薄っすらと目を開けた。紅の重ねられた唇がわずかに震え、噛み締められた。

 また、呼んでくれない。

「そんなに噛んではいけませんよ」

 返事はない。これらが、香月の精一杯の抵抗であることを、雪月は知っている。今日はいいなりにならない。家に帰してほしい。ここから出してほしい。もう口には出さなくなった、そんな願望が詰められたものなのである。

 彼女に何を言われようと、彼女が何をしようと、ここから出すつもりはない。一度逃がしてしまば、彼女はもう二度と手元には戻らないだろう。そうすれば、側にいることも叶わなければ、その姿を見ることすら叶わなくなる。せっかく彼女を自分だけのものにしたのだ。手放そうとするなど、考えるはずがなかった。

「寒くはありませんか」

 静かに問いながら、寝台に散らばった髪を梳く。朝あれほど時間をかけて整えたのに、今ではこの有様だ。与えた簪はどこにやったのかと床に視線をやれば、装飾が外れて無残に転がっている金色を見つけた。そうか、投げたのか。

 似合うと思ったのに。喜ぶと思ったのに。そう言いたくなるのをぐっとこらえ、話を続ける。

「これから寒くなってきますから。我慢をされるとお体に触ります。何かあれば、申し付けてくださいね」

 無論、言われる前に用意するつもりだが。今の彼女が、要求を口にするとは到底思えなかった。

「せめて、食事くらいはきちんととってくださいね」

 今日も、食べさせてやらねばならぬかもしれぬ。半分も手をつけられていない食事を見ながら、口の中で呟く。ここに連れてきたのも、そうしようと決めたのも自分だが、彼女が日に日に弱っていくのを見るのは、さすがに堪えるものがあった。

 香月をここに捕えること。それが、自分の望みの終わりではないことは、よく理解しているつもりだった。彼女がこれを少しも望まないことも、よく分かっているつもりだった。だが、いざ心を閉ざし、次第にやせ細っていく彼女を見続けるのは、心が痛むものではあるのだ。それでも彼女を籠に閉じ込めておきたいと心底思うのだから、もはや笑いがこみ上げてくる。

 自分の体を抱きしめるように、怯え続ける姉。それを見ているうちに、今まで聞きたくても聞けなかった疑問が、ふいに頭をもたげた。

「私が怖いですか。それとも憎いですか」

 初めて口にしたした問いに、香月がはっと目を開ける。瞬きの後にさまよい始めた視線が、暗にその答えを示しているようだった。

「どうですか」

 彼女の両側に手をつき、真っすぐに見下ろしながら問いかける。香月は最初はただ唇を震わせるだけだったが、やがてすうと青ざめた。ほんのわずかに体を起こし、じりじりと後ずさっていく。

「怖いのですね」

 分かっていたつもりたった。なのに、無性に苛立たしくなって、その首に垂れ下がる鎖をぐいと引いた。鈍い悲鳴が、その喉から漏れる。

「自分で聞いたくせに、と思いましたか。乱暴だと思いましたか」

「あ、ち、ちが」

 震える肩に触れ、寝台に押し付ければ、ぽろぽろと透明な雫がその瞳からこぼれていった。綺麗だと心から思えた時は、とうに過ぎた。

「ええ、当然でしょう。あなたの婚約者を次々と陥れたのは、私でしたから」

 肩をなぞり、首を撫で、頬に触れる。当たり前の恋人のように甘い時を過ごしたいのに、得られるのはこんなものでしかない。

「もう、あなたの中で、私はこれ以上ひどい人にはならないでしょうね」

 堕ちるところまで、もう堕ちてしまったのだから。そう思えば、何もかもどうでもよく思えて、ただ彼女の温もりに縋りたいという気持ちだけが残った。

「姉様。お願いですから、私の側にいてください。消えてしまわないでください」

 彼女の乾いた唇に、自身のそれを重ねる。自分のよりも冷たい表面を温めるように、奪い取るように、衝動のままに貪り続けた。

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