[単話]雨読な終日

「趣味は何ですか?」というのは初対面の人同士でよく交わされる、月並みな質問だ。


 旅人という身分である私は、多くの人たちと初対面の会話をすることが多い。ゆえに、そんな質問を受けることが度々にある。


 しかしながら私は……あまり趣味に関する質問が得意ではない。




 ─────────




「いらっしゃいませ」


 落ち着いていながらも、よく通る声を発した店員さんが私のすぐ後ろを横切って行った。


「2名様ですか? ……はい。喫煙は……畏まりました。こちらの席へどうぞ。足元滑りやすくなっているのでお気をつけください」


 数秒してから複数の足音が耳を掠めた。右を一瞥すると一組の男女が。彼らはコートを脱ぐなり項垂れの声をあげた。


「うへぇ、靴下まで濡れきってやがる……」


 男の方のそんな愚痴は私の耳まで届いており、私は左の方へと首を向けた。そこはオープンテラスがあり、全面がガラス張りで外がよく見える。


「うわっ」


 ザーザー降りの雨。細長い雨粒が一斉に地面に叩きつけられているのが見え、ついわたしの口からそんな小さな悲鳴が漏れてしまった。 ……あれはまだ店を出ないほうがいいだろう。


 ため息を吐きながら、私は手元の本に目線を落とした。以前訪れた街で購入していたミステリー小説だ。ページを捲る。指が紙を弾くパチっという音とその感覚が心地いい。以前何かの雑誌のコラムに取り上げられていた本好きの男性が『本は目だけではなく、全身で楽しむものだ』なんて言っていたが、まさにそうだと思う。


 そうやって降り続ける雨から目を背けるようにして、本を読み進めていく。キリが良い箇所まで読んだところで、栞を挟み「ふぅ」と一息をついた。本の隣には一杯のコーヒーが。このカフェのブレンドだ。


 本をちょっとだけ遠ざけて、マグを両手で取る。おそるおそると私はマグに口をつけた……。


 苦い…………あとちょっと酸っぱい。


 眉を潜めながら私はついそんなことを思ってしまった。“つい”というか、コーヒーを飲むたびに思っているのだが。


 口直しにレモンの風味づけがされた水を喉に流し込んだ後、今度はコーヒーの香りだけを楽しむ。そう、香りだけならば楽しめるのだ。全くもって。


 はァとため息を吐き、近くを横切った店員さんに話しかけた。


「すみません、お砂糖とミルクもらえますか?」

「砂糖は無料ですが、ミルクの方は追加料金がかかりますよ」

「えっと、なら砂糖だけお願いします」

「畏まりました」


 相も変わらずコーヒーが苦手な私は、しかしながらコーヒーを好きになりたがっている。砂糖もミルクも入っていないブラック……。


 コトと置かれた小さなポットから角砂糖を3つほど摘むと、ひょいひょいとコーヒーの中に放り込んだ。再び口付けると、いっぱいに仄かな甘さと豊潤な香りが広がった。後味は苦いままだけれど……でも美味しい。


 美味しいけれど、でも負けた気はする。ブラックが飲めてこそのコーヒーではないかと思ってしまうのだ。飲めるのが大人ではないだろうか? なんて。以前に出会ったとあるデザイナーはかぶりを振ったものだが。


 また今度リベンジかな、なんて思いつつ私は再び本の世界へと足を運んだ。



 ………………


 …………


 ……



「ふぅ」


 ついに読破したところで、私はパンッと本を閉じ息をついた。毎度のことながら、活字を頭の中に叩き込んだ後は異様な倦怠感に襲われる。常に情報を頭の中に叩き入れるせいだろうか? 勝手にそう思っている。


 ズズッと啜ったコーヒーはすっかりと冷めきってしまっていた。 ……どれくらい時間が経ったのだろうか?


「読み終わりましたか?」

「……え」

「随分と熱心にお読みになっていらっしゃったので」


 声のする方を振り向くと……というか、私が座るカウンター席の隣には一人の女性が頬杖をつき私のことを見ていた。


「店員さん……?」

「はい、店員さんですよ。今は勤務時間外ですけどね」


 私に向かって軽く会釈をして見せた女性は、以前の給仕の格好ではなく、すっかりと普段着だ。


 私が何かを言う前に店員さんは言葉を重ねる。


「雨足が強くなりすぎてしまって……どうにも帰れないのですよ」

「雨足が……え」


 嫌な予感がしてオープンテラスの方へと視線を向けてみると。


「土砂降り、ですね」

「風もビュービュー吹いてますよ」

「……宿まで帰れるかな」

「少し厳しいかもですね。他のお客様方はすでにご退店されてしまいました」

「あれ、もしかして私……出遅れた感じですか?」


 店員さんは私の問いかけにニコッと笑って見せたが、私には「そうですよ」という文字が顔に書かれているのが見えた。


 すっかりガランとしてしまった店内。私一人、店員さん一人、マスターが一人。すっかりと取り残されてしまった感じらしい。


 どうしようか? 無理にでも宿屋まで帰ってみようか? だが、この雨と風では視界の効きはかなり悪いだろう。もし迷いでもしてしまったならばと考えると、随分と億劫な気分になる。いやしかし、ココに滞在し続けるのも……………。


 そうやって私がウンウンと頭を悩ませていたところ、店員さんがツンツンと私の肩をつついた。


「少しだけお話ししませんか? 雨が弱まるまで」


 再びニコッと笑った店員さん。彼女の短く切り揃えられた黒髪がふわりと揺れた。


「お話……ですか」

「はい。本を読み終えてしまわれてお暇かな、と」


 ……ちょっと失礼だなこの人。まぁ、実際に暇だけれど。


 私が「いいですよ」と首肯すると、店員さんはカウンターへと小走りで向かいコーヒーカップを2つ持ってきた。


「どうぞ、ブレンドです。お代は結構ですので」

「いいんですか?」

「お話に付き合ってくださるお礼みたいなものですから。マスターからも了承を得ました」

「……そういうことなら。あ、お砂糖もらえます?」

「ふふ、畏まりました」


 私は受け取ったコーヒーの中に1杯目と同様、角砂糖を3つコーヒーに混ぜた。一方で店員さんは何も入れることなく、ブラックのまま飲んでしまった。


「……? どうされました?」


 私の視線に気がついたらしい店員さんがそう訊いた。


「あぁ、いや。 ……ブラックで飲めるのが少し羨ましくて」

「慣れているからですね。子供の頃からずっとここのコーヒーを飲んでいるものですから」

「お姉さんはずっとこの街に住んでるんですか?」

「ええ、生まれた時から。マスターはわたしの父なんですよ」

「あぁ、なるほ……え」


 衝撃の事実。


「あと“お姉さん”って言ってましたけど、多分わたし……お客様よりも歳下ですよ?」

「……何歳ですか?」

「今年で16です」

「……」

「驚きましたか?」


 ニマニマと笑う店員さん。きっと私は彼女が期待していた通りの表情をしているのだろう。


「……てっきりもう成人されているものかと」

「よく間違われるんです」


 眉を潜めて笑う店員さん。心なしかその顔にはあどけなさがあった。歳を聞いたからかもしれないけれど。でもやっぱり16には見えない。ルックスがどうの……というよりは、立ち居振る舞いがとても大人びているのだ。


「まぁ、わたしの話はいいじゃないですか。お姉さんのことを聞かせてください」

「私のことで……私のこと?」

「はい。他所からいらしたのですよね?」


 隣にいるスーツケースを見ながら店員さんは言った。首肯し、旅をしていることを伝えると彼女は大きく目を見開いた。


「ぜひお聞かせくださいませんか? 色々と、旅の話を」

「うん……まぁ、ブレンドもらったからね」


 ゴホン、と一つ咳払いをして私は自身の旅路について色々と話した。ザーザーと降り続ける雨音を背にして。



 ………………


 …………


 ……



 カップの底に溜まったコーヒーをひとすすりに飲んだところで、私の旅の話も丁度終わりを迎えた。


「貴重なお話をありがとうございました」

「あまり実になるようなものじゃないと思うけどね」

「いえ、とても興味深かったです」

「なら良かった」


 ふぅと息を吐いたく店員さん。私の目には、彼女の表情が充足感を感じているように見えた。願望が混じっているかもだけれど。


 首からぶら下げた懐中時計を見やるとすっかり1時間が経過してしまっていた。さすがに雨足も……


「まだ……結構降ってる」


 外を見やった私の口からそんな言葉が漏れ出た。


「もしかしたら今日はずっとこんな感じかもしれませんね……なんでしたらカフェここに泊まってしまっても構いませんよ?」

「いや……流石にそこまでお世話には」

「そう、ですか?」

「頃合いを見計らって帰るよ」

「……分かりました。なら、もう少しだけお話に付き合ってもらって構わないでしょうか?」

「まぁ、うん。それは大丈夫」


 別に宿に帰ったって、何か用事があるわけではなかった。第一この雨だと大抵のことは中止せざるを得ないだろう。


「えっと、一つお尋ねしたいことがあるんですけれど」

「何かな?」


 店員さんは一呼吸を置いてこう訊いてきた。


「あの、旅をする中で何か趣味とかってありますか?」

「……趣味、ね」


 反射的に私の頭の中には一つのフレーズが走った。

「出たよ、その質問」。なんてそんなのだ。


「……? どうされました?」

「いや……んー」


 曖昧な返答をしてはぐらかせる。 ……私は趣味に関する質問がちょっと苦手だった。


「……少し答えづらかったですかね?」

「そういうことじゃないんだけど……えっと」

「いいですよ、全然。別の話題にしましょうか」

「いや……」


 このままだと必要以上に店員さんが責任を感じてしまうか。


 …………。


「ごめん、話すよ。別に趣味の話が嫌という訳ではなくてね? ただ……ちょっと苦手なんだ」

「苦手、ですか」

「えっと……えっと」

「コーヒー飲んでください。落ち着くんで」

「え、あぁ……うん」


 言われた通り、私は半ば反射的にマグを手にとった。

 グビッと飲む。味はよく分からなかったが何となく身体が緩んだ気がしないでもなかった。


「大丈夫そうですか?」

「……うん。落ち着いたよ」


 長く息を吐いて、私はポツポツと話した。


「別に、趣味に心当たりがない訳ではなくてね。旅の合間とかに本を読むんだよね、私。宿で眠る前とか、レストランで食事を待つときとか。今日みたいにさ。ただ……」


 私はカウンターへと視線を落とした。そこには先ほど読破したミステリー小説が。最近話題の作品だと店主は言っていたものだ。


「何となく、ね? 読書を“趣味”って言うのははばかられるんだ。趣味って……もっと打ち込んでないといけないものかなって思っちゃって」

「……と言いますと?」

「今日は特別なんだけど、普段は別にすごい読書をする訳でもないんだ。読むのは合間の時間だからさ……1日1時間も読めばいい方で。読書する時間、全然人並みくらいなんだ。だから趣味の域に達していないっていうか……趣味としての責任? を持てないって考えてて。だからって他に心当たりがあるかって言われたらないんだけど」


「とにかくまぁそんな感じ」と私は投げやりに締めくくった。漠然と感じる気恥ずかしさを誤魔化すために残りのコーヒーを飲み干す。


「なるほど。趣味と言える自信がないってことですよね?」

「まぁ、そんな感じかな……」

「別にいいんじゃないですか? 読書で」

「え?」


 意外な答えがすんなりと返ってきたものだから私の目は点となった。


「職業柄、お客様とお話をする機会って多いんですけどね? その中で趣味を聞くことが多いんですよ。何でだと思いますか?」

「……それを知りたいから、ではなくて?」

「何と言いますかね? 知ってどうしたいのかという意図ですね」

「…………」

「簡単ですよ。その人ともっとお話がしたいからです。だから、“趣味”を訊いて話題を広げようとしているんですよ」

「話題を……広げる」

「はい。少し質問の仕方を変えてみましょうか。お客様は読書がお好きですか?」


 私は頷いた。


「なら、いいじゃないですか。好きなこと……それだけで話題は広がるのですから。なら“趣味”を“好きなこと”と言い換えても差し支えはないはずです」

「そんなので、いいものなのかな」

「聞き手の立場から考えてみると分かりやすいと思います。『趣味は何ですか?』と訊いて、『読書です。嗜む程度ですが』……そう返ってきて何か問題がありますかね?」


 数秒頭を働かせて、しかし私は首を横に振った。


「……いや、ないかも」

「全く無いですよ。趣味を訊くってのはそんな程度です。その人が好きなことであれば、堂々と言えることであれば趣味と言っていいのではないでしょうか? 誰かが好きなことを聞くのって、結構悪くないものですよ」


 趣味を訊く意図。そんなこと、考えたことがなかった。ずっと私は趣味の定義に囚われていたのかもしれない。 ……いや、実際そうなのだろう。そして、その原因にも何となく見当がついた。


 たぶん私は自分の行動に自信が持てていないのだ。他人がやること、為すことが全部青く見えてしまってて、それと比べて自分がやること、為すことが中途半端なものに思えてしまう。だから“趣味”なんて一言で表そうとすると……まるで他人と同じ土俵に並ぼうとしているみたいで。きっとそれに抵抗感を覚えていたのだ。


 心の中でそうやって言語化してみて、妙に腑に落ちた。思わず口から笑いが溢れてしまう。


「……はは」

「解決しましたか?」

「いやしてはないよ。やっぱり、何となく抵抗はあるかな。でも“好きなこと”だったら……ちゃんと答えられそう」

「気負いすぎないくらいがちょうどいいと思いますよ?」

「そうだね」


 見上げた天井に簡素な照明器具を見つけた。淡く広がる橙色の光が、薄暗い店内をほのかに照らしている。


「……一つ気になったことがあったんだけどさ」

「はい、何でしょうか?」

「店員さんはもっとお話がしたいから趣味を訊くんだよね? だったら私にも同じことを訊いてくれたのって……そういうことだよね? だったら結構嬉しいよ。ありがと」


 私がそうお礼をすると店員さんは一瞬だけ、豆鉄砲を食らったような顔をした。しかしすぐにその表情には笑みが戻った。彼女なりのポーカーフェイスなのかもしれない。


「なら、わたしからも一ついいですか?」

「何かな」

「ブラックコーヒー……味はどうだったかなと思いまして」

「……?」

「目の前にあるマグです」

「……これって」

「ごめんなさい、飲みかけだったんですけどね。ふふ」


 口元に手を添えて笑う店員さん。 ……やはり歳下には到底思えなかった。


 ハァ、と今度は隠すことなくため息を吐いた。ふとオープンテラスへと目をやると、鈍色の空に白い光を見つけた。

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